高井野の地理>高井野の水路

『思い川』と『紫川』〜「四分六分堰」

堰(せぎ)の開発

周囲の高い山によって海からの湿った風が遮られている信州は、降水量が日本国内でももっとも少ない地域の一つです。
 松川扇状地に広がる高井野原と日滝原(ひたきはら)には今から5,000年ほど前から人々が定着していたようですが、 降水量が少なく地下水位も低いことから、集落の形成や水田の開発に不可欠な水は赤和を源とする八木沢川(やんしゃがわ)とその支流の久保川、樽沢川の川水を主に利用し、その他は、わずかな湧き水と沢水を飲み水や生活用水、耕作に用いていたと考えられます。

↓上空から見た高井野(昭和50年)
上空から見た高井野
 空中写真は「国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省」を元に作成

 水田の開発が広がるにつれて八木沢川の水だけでは足りなくなり、村中で最も水量の多い松川の本流は鉱毒による強酸性水で生活用水に利用できないことから、高井野では樋沢川(ひざわがわ)、山田郷では鎌田川(かまたがわ)などから水を引く用水路を開鑿して開拓が進められました。
新堰  この辺では用水路のことを「堰(せぎ)」と呼び、数多くの堰が開発され、人々によって維持管理されてきました。
←樋沢川から引いた新堰


「四分六分堰(しぶろくぶせぎ)」

上信国境の分水嶺を源にする樋沢川と、紫祢萩山(しねはぎやま)の寒沢(さぶっつぁわ)から流れ出る水を取り込んで引水し、黒部村と高井野村の境界付近で二本に分水されて高井野の中を流れる用水路が「四分六分堰」です。
高井野の堰
↑高井野の堰 原滋「高井・日滝地区の用水堰」より

分岐  二つに分水された水量の割合が4対6であることから「四分六分堰」と呼ばれています。
←四分六分の分岐
 このうち、南側に分かれて黒部村と高井野村の境界を流れ、北裏から北新井(後に南新井と合併して新井原となり、荒井原に変わる)に向かい、赤和(江戸時代は上赤和と下赤和)・久保・水中(江戸時代は水沢と中善)の端を通って、堀之内、千本松に至る水量の多い堰が「六分堰」です。 別名『思い川』と名付けられた人工の用水堰で、中世以前には開鑿されていました。
 一方の北側に分かれて二ツ石、紫から堀之内の四ッ谷、千本松を経て日滝村に至る水量の少ない堰が「四分堰」で、別名『紫川』と呼ばれています。ちなみに日滝村では『日滝川』と呼んでいました。

紫祢萩山
↑紫祢萩山と樋沢川、『思い川』『紫川』の絵図(文化7年)
 鎌倉時代後半の記録によると、もともとは五分五分の配分だったものが、戦国時代に甲斐の武田信玄が信濃国に攻め込んで地元を支配していた領主を越後に追いやった際、日滝村は神社仏閣をはじめ建物のほとんどが消失して百姓達も逃げ出してしまったという伝承があり、この頃に四分と六分の割合に変えられたようです。


水争い

干魃が続いて堰の水流が乏しくなると、『紫川』下流域の住民は備中鍬や鋸を持って堰の分岐点へ押しかけ、分岐界を壊して『紫川』に水が多く流れるように変えてしまいました。
 もともと五分五分に水が配分される構造になっており、六分堰の幅と深さも四分堰と変わらないため、分岐を破壊すると自然に水は五分五分に分かれます。
 これに対抗して分岐界が壊されないように守ろうとする『思い川』流域の住人との間で諍いが生じ、殴り合いで怪我人はもちろん、死者が出たことさえあります。 また家の中まで入り込んで馬を引っ張り出したというような事件も度々起きていました。
 こうした水争いは、昭和47年に日滝原潅漑事業が竣工するまで毎年のように繰り返されてきました。


堰の管理

高井村用水(上堰)竣工
↑高井村用水(上堰)竣工記念(大正4年5月)

季節による水量調整のほか、大雨による洪水防止などの取水・放水管理が行われています。
 大雨や激しい夕立などで大水が出ると、取り入れ口の石積みが崩れて用水の水が止まってしまうことがたびたび発生したので、その度に高井野村、日滝村両村から工事を行う水掛人足を出して補修工事を行ってきました。
 現在は高井地区と日滝地区の関係区で樋沢水利組合を結成し、四分六分堰のほか、上堰、下堰、新堰の用水管理を行っています。 毎年4月、高山村の千本松、堀之内、水中、久保、赤和、荒井原、紫、二ツ石、黒部と須坂市日滝の各区長が水路の点検をした後、高山村役場に集まって水路が順調に流れるように協議しています。

水掛け〜紫区

紫は古くから下堰の水掛けを受持ち、春水苗代の始まる頃から、秋稲刈りの頃まで、夕立・集中豪雨・台風による大雨・日照りによる渇水の度に区長が責任を負い、五人組を動員して水掛け人足を出したのである。 大雨になると必ずと言って良い程水が濁る。濁った水は大きな力となって取入口の石積みを破ってしまい、水が止まる。 そこで俵・叺(かます)・鋸(のこぎり)・鎌・草掻き・備中鍬・ショベル等のうち、被害の程度により用具を持参、人足も普通はひと組、五〜七人で間に合うが被害の多い場合は二〜三組を動員して、早朝五時〜七時位の間に工事をすませたものである。 先ず川の中に入って流れた石積みを積み直し、その間に粗朶(そだ)か草を埋めて水を止め、掛け口に流れ込んだ土砂を除き、水の流れを良くするのである。
松本利輔「高井野村四分堰・六分堰の用水慣行」より

水量調整〜二ツ石区

「ひの」  二ツ石は反対に、夕立・台風による大雨・集中豪雨になると、大きな石や土砂・木片等が堰に流れ込み、堰を破損したり、水が道路に溢れて道を破壊するので、これを防ぐため、四分六分の分岐点より凡そ百米程上流の所に、水を調節する施設「ひの」があり、この「ひの」を開いて全水を樋沢川に戻す仕事を担当しているのである。
 紫地区と同様五人組が順番に出動して実施しているので、この水は二ツ石区長の責任となっている。
←「ひの」
松本利輔「高井野村四分堰・六分堰の用水慣行」より

上堰〜黒部区

上堰(一名黒部堰)は現在新堰に合流しているが、昭和二十九年に高井村上水道敷設の際、黒部区所有の鞠子(まりこ)の湧水を高井村に提供した。 昭和三十年、樋沢川取入れ口からと寒沢から取り入れ、新堰・下堰の整備によって、上堰は黒部区に任せたので、水路管理は黒部区が行っている。
松本利輔「高井野村四分堰・六分堰の用水慣行」より

黒部区では区の役員として選任された建設水利委員2名が用水を管理し、毎年4月下旬の日曜日には各戸1名の義務によって堰普請が行われています。

「樋沢普請」

5月3日の朝、樋沢水利組合に加入している各区から、1戸1名が草掻きや草刈り鎌、ショベルなどを担いで昔の百姓一揆さながらの格好で出動し、堰の受け持ち区間を手入れする作業を「樋沢普請(ひざわぶしん)」と呼んでいます。単に「堰浚い(せぎさらい)」「堰上げ(せぎあげ)」と呼んでいる地区もあるようです。
樋沢普請  六分堰は高井地区の千本松、堀之内、水中、久保、赤和、荒井原の各区が担当します。 四分堰は日滝地区が受け持ち、相森町は紫の神明社近くまで、高橋町は二ツ石と紫の境まで、大谷町は二ツ石まで、本郷町は下堰の掛け口までの区間で作業します。
←樋沢普請
 地面を掘り下げただけの水路だったときは、水路の中の石や泥を取り除き、覆い被さっている草や藪を刈り取る作業は村をあげての大仕事でしたが、大部分がコンクリート水路になってからは各区とも数名が出動するだけで間に合うようになりました。


「相森堰(おおもりせぎ)」

相森堰←相森堰と水田
 紫区のほぼ中央の岡村さん宅前で『紫川』から分水し、神明社の杜の前を通り、ほぼ真っ直ぐに虫送りを通って相森に通じている細い堰を「相森堰」と呼んでいます。

分水枡  「相森堰」は明治初期に高井野村堀之内の太田才右衛門らが上州満座山から日滝原に引水し、高井・日滝・小河原の畑地を水田に改めようとした疎水事業の名残で、高井野では「太田堰」と呼んでいます。

 須坂市の相森をはじめとする3地区は松川扇状地の下部にあって地下水が低く、乾燥地で、冬期間この堰に水を流すことによって井戸水が涸れないといわれていました。
分水枡の案内板  このため毎年秋の彼岸になると、相森・虫送り・高畑の区長・区長代理が二人ずつ交代に紫区長宅へ酒二升を持参して水を流して貰うように依頼し、次に、鍵を預けてある岡村さん宅にお茶一本を持参して鍵をあけて貰うように頼みます。
 春の彼岸になると再び当番区の区長・区長代理が同じ品物を持参してお礼に参上し、水を止めて鍵を掛けていました。
←「分水枡」の案内板

昭和35年に上水道が敷設され、昭和47年に日滝原潅漑事業が竣工したことで「相森堰」の重要性がなくなり、区長の挨拶の慣行もなくなったそうです。


近年の堰改良工事

昭和24年
樋沢堰改良工事実施
昭和24年
キティ台風によって新堰取入口が被災
昭和25年
災害復旧工事中、8月5日の集中豪雨によって全部流出
昭和26年
新堰を全部隧道にした
新堰の上流に砂防ダムが建設され、下流の河床が下がって取入口の改良に苦労
昭和28年
下堰の改良工事実施
その後毎年のように下堰の取入口が破壊される
昭和34年
伊勢湾台風7号、台風27により下堰の取入口が流失
昭和34年
四分堰・六分堰の改良工事開始
昭和54年
下堰の大改良工事開始
平成20年
取入口改良工事

参考にさせていただいた資料

最終更新 2012年 3月31日

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