高井野の歴史>もう一つの将二人
戦国時代、北信の高井野や川中島一帯は越後の上杉軍と甲斐の武田軍がたびたび激突する舞台となりました。
特に永禄4年(1561年)9月10日早朝、深い霧の立ち込めた川中島の八幡原で、越後勢1万8千と甲斐勢2万の兵が激突し、謙信と信玄が一騎打ちに及ぶ激戦になったと伝えられています。
徳川家康が天下を平定した後、戦国の動乱を生き抜いてきた武将二人が幕府によって北信の隣り合った領国に移封されてきました。
生き様の対照的な二人の武将が同時期に暮らしたのは1年半ほどですが、もし千曲川の辺ですれ違っていたら、どんなことばを交わしたことでしょうか。
尾張国海東郡二寺村の桶屋に生まれました。豊臣秀吉の甥にあたり、幼少より秀吉に仕えて数々の戦功をたて、文禄4年(1595年)には清洲24万石の城主となりました。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の合戦では徳川方に属し、先陣を切って豊臣軍と戦った戦功により、安芸広島城主(49万8220石)に取り立てられました。
←福島正則の肖像(高井寺蔵)
ところが元和5年(1619年)、居城の無断修理を理由に所領を没収され、信州高井郡内2万石(現在の高山村のうち高井・黒部・中山田・奥山田・駒場、須坂市の中島・村山、小布施町の雁田・六川・清水・中子塚・小布施・北岡・山王島・矢島・羽場、中野市の35カ村、山ノ内町の6カ村)と越後魚沼郡内2万5千石をあてがわれ、高井野藩主となりました。
元和5年10月に江戸から移ってきた正則は、須坂藩二代藩主・堀直升の配慮で須坂藩内の寿泉院に仮寓しました。
高井野堀之内の陣屋に移った後も度々寿泉院を訪れ、屋敷の正門を寄付したと伝えられています。
←寿泉院の碑(須坂市)
館の四壁に高塁を築き塁上に松柏桜等を植え、塁外に空堀を穿ち、門外に馬場を構え、領内総検地や松川の流路改修、用水開鑿、新田開発等を行ったと伝えられています。
寛永元年(1624年)7月13日、64歳で亡くなりました。
正則が亡くなったとき、幕府が検死の使者堀田正利を送りましたが、使者が到着する前に正則の遺骸を家老津田四郎兵衛が火葬してしまい、それを幕府に咎められ、わずか3千石に減封されました。
←火葬場跡
遺骸は正則が領内雁田(小布施町)に菩提寺とした岩松院に葬られ、後に五輪塔が建てられ霊廟になっています。
『海福寺殿前三品相公月翁正印大居士』
『寛永元甲子七月十三日福島左衛門大夫』
←岩松院福島正則霊廟「福島正則公のおたまや」(小布施町)
正則は嫡男の忠勝に家督を譲りましたが、元和6年(1620年9月14日)に忠勝が死亡していたため、家督は正則の子・政利(正利)が継ぎました。
寛永14年(1637年)に政利が亡くなると、政利には子がなかっため福島家は断絶し高井野藩は改易となりました。
その後、忠勝の孫・左兵衛正勝が召し出されて2千石の旗本に取り立てられ、その末裔は現在も健在だそうです。
福島家の菩提寺は元和2年(1616年)に正則が開創した京都の臨済宗大本山妙心寺塔頭海福院で、正則父子を始めとした福島家の墓所があり、正則の槍などの遺品が伝えられているそうです。
天明5年(1785年)、屋敷跡に高井寺が移ってきました。
このとき四壁の高塁に植えられていた松柏は切り採られ、高塁が毀され、空堀が埋められて田圃にされ、西南2面に石垣が築かれたと伝えられています。
←明治初期の屋敷跡の図
(『信州高山村誌』より)
高井寺には正則の肖像画や遺品が伝えられています。
←高井寺本堂(高山村堀之内)
高井寺境内に墓碑が建てられています。
「年月流れ公逝きて二百年、全村民挙て公の二百年祭を虚構せんことを企て、嘉永元年之が執行に際し、海福寺殿前三品相公月翁正印大居士と刻せる大聖徳碑を高井寺境内の建立し、数日にわたり盛大に供養を行いたりとぞ。」(『高井村筆塚並先人塚墓調査書』より)
○高杜神社の参道に杉を植え、屋敷まで参道を延ばそうとしたという話があります。
←高杜神社の杉並木(高山村久保)
○正則は高井野村赤和に海福寺を興して菩提寺にしようとしたと伝えられています。
←馬陰山海福寺と城山(高山村赤和)
屋敷跡は長野県の史跡に指定されています。
福島正則屋敷跡
昭和四十一年三月三十一日指定
長野県教育委員会
一、この旧館跡は東西五十七間半(約一0四.五米)南北四十間(約七二.七米)面積七反六畝(約七十六アール)あり、四方に高土壘を築き壘の外に空濠を廻らしてあった。
現在東北隅に高さ約二米、長さ約十九米の土壘が残存している。
一、正則は元和五年(一六一九)六月城地没収となり、上高井郡二万石、越後魚沼郡二万五千石併せて四万五千石の捨扶持を与えられ高井野の地に住居を定めたのである。
一、正則の在館年数はわずか数年であったが、領内の検地を行い、高井野原の用水堰を開き、松川治水の築堤西条新田の開拓など民政に尽くした功績が大きい。
一、寛永元年(一六二四)七月十三日六十四歳で病死した。
正則はかねて本村赤和に海福寺を興して菩提寺としようとしたが、故あって位牌は領内雁田小布施の岩松院に納められ廟所も同寺境内に設けられた。
昭和四十一年三月
高山村教育委員会
火葬場跡には供養塔が立てられています。
信州・真田の豪族だった真田一族は、関が原の合戦で真田信之は徳川方につきましたが、信之の父・真田昌幸と弟・信繁(通称・幸村)は豊臣方に組し、信州・上田城で徳川秀忠の軍を足止めしました。
関ヶ原合戦の後、真田信之は父・昌幸の領地であった信州・上田を中心とする小県(ちいさがた)郡を与えられました。
←真田信之肖像
元和8年(1622年)10月、信州・松城(まつしろ:今の長野市松代)に所領替えさせられ、翌11月、かつて武田信玄が川中島の合戦で陣を構えた海津城に移って初代松代藩主となりました。
万治元年(1658年)10月17日、93歳で亡くなるまで真田家存続に知力を尽くし、真田家が明治になるまで松代藩を統治し続ける礎を築きました。
←松代城(海津城)跡
信之は明暦2年(1656年)に家督を譲り、わずかな家臣を伴って柴村の隠居屋敷に移りました。
←大鋒寺と霊屋、墓所(長野市松代)
信之の死後、屋敷は大鋒寺に改められ、書院跡には霊屋が建てられました。
書院の部材を再利用して建てられたといわれる霊屋
荼毘に付した灰塚の地に設けられた墓所
←真田信之の墓
宝篋印塔 高さ3.3m、
『大鋒寺殿徹巌一当大居士』
『骨頭片々即法身』
『万治元戌年 十月十七日烏』
と刻み込まれています。
脇には殉死した鈴木右近忠重の墓石が控えています。
大鋒寺の真西の千曲川対岸は、奇しくも上杉謙信と武田信玄が一騎打ちしたといわれる八幡原古戦場跡です。
松代真田藩主の菩提寺である長国寺には、信之はじめ歴代藩主の霊廟や墓所があります。
←曹洞宗真田山長国寺 本堂
←真田信之の墓
←真田家墓所
宝篋印塔が並び、信之の弟信繁(幸村)とその子幸昌(大助)の供養碑も建てられています。
真田家の系統は明治以降も受け継がれ、信繁の末裔も仙台真田家として今日まで健在です。
年代 | 福島正則 | 真田信之 |
永禄4年 (1561年) |
尾張に生まれる | |
永禄9年 (1566年) |
真田昌幸(当時は武藤喜兵衛)の長男 として生まれる |
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天正11年 (1583年) |
賤ヶ岳の合戦で戦功を挙げる | |
天正13年 (1585年) |
伊予今治に入封 10万石 | 徳川軍と戦い勝利する |
天正18年 (1590年) |
小田原の役に参戦 | 小田原の役に参戦 沼田城主 |
文禄元年 (1592年) |
朝鮮出兵で渡航 | 朝鮮出兵に出陣 |
文禄4年 (1595年) |
尾張清洲城主 24万石 | |
慶長5年 (1600年) |
上杉討伐参戦 関ヶ原の戦いに参戦 |
上杉討伐参戦 上田城攻めに参戦 |
慶長6年 (1601年) |
芸備に入封 49万石 | 沼田城に入る 上田藩主 9万5千石 |
慶長19年 (1614年) |
大坂冬の陣(江戸城留め置き) | 大坂冬の陣(参戦せず) |
慶長20年 (1615年) |
大阪夏の陣(江戸城留め置き) | 大坂夏の陣(参戦せず) |
元和2年 (1616年) |
上田城に入る | |
元和5年 (1619年) |
信濃国高井郡に減封 4万5千石 高井野村堀之内の館に入る 高井野藩成立 |
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元和6年 (1620年) |
嫡男・忠勝が死去 2万5千石を返上 |
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元和8年 (1622年) |
信濃松代藩に加増移封 13万石 | |
寛永元年 (1624年) |
正則死去 家督を政利が継ぐ 3千石に減封 |
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寛永14年 (1637年) |
政利死去、福島家断絶 高井野藩改易 |
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明暦元年 (1656年) |
次男・信政に家督を譲って隠居 | |
万治元年 (1658年) |
真田騒動 沼田領が分離 10万石 信之死去 |
最終更新 2018年 9月 9日