高井野の歴史中野騒動

「村沿革材料蒐集記」

勝山宇三郎氏 「村沿革材料蒐集記」は明治4年(1871年)に高井野村名主に選任された勝山宇三郎氏(1851年〜1914年)が書き留めた明治初期の記録です。
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勝山信司氏  宇三郎氏の子息・勝山信司氏(1879年〜1955年)よりこの記録を借り受けた山岸善一氏が、「暴動」という見出しで書かれた「中野騒動」に関する部分を書き写されました。
←勝山信司氏


山岸善一氏のまえがき

勝山信司先生(1879年−1955年)が屋代中学校長を退職されて郷里上高井郡高井村久保の生家に帰省された頃、先生は刀剣や古文書古記録の鑑賞や渉猟に深い興味を持たれていた。 勝山家所蔵の古文書古記録類の整理もなされたようであった。 父勝山宇三郎(1851年−1914年)氏の手記「村沿革材料蒐集記」の表紙書のある野帳めいた綴りも其当時の掘り出し物であった。
 「これは父の書き残したものだが、明治初年のことが書留てあって、参考になるから君に見せる」
といって私に貸してくださった。
 私は喜んで幾日かかかって書写した。此の内に暴動という見出しで中野騒動のことが断片的ではあるが記載してある。 これらの記載を集約して高井野村での中野騒動百年忌を偲ぶことにする。


「暴動」

米価の騰貴

『明治三午年(1870年)は前年不作により喰穀不足を生じ、四月中、郷倉貯穀の拝借をなした。 (籾十円に二俵半となる。但し八月より九月末頃の間、此時は両替相場は六貫六百文、一分は二十五銭、一朱は六銭二倫五毛、 此年維新に際し殊に物価騰貴し米価前例なき昇騰を来し、町相場は一両に八升まで騰貴となり、次第に下落し十二月は一斗一升、此時上納相場は一斗六升の石代にて納租するに決す。 之に因って人身穏当ならざる人気に立至り、諸藩の暴徒蜂起し、十二月十三日須坂藩を始め夫より引続き松代藩、十二月十九日午後五時半、中野暴動となる。
 付
 郷倉は堀之内高井寺東南にあり
 一、籾百四拾九石七斗三升九合
   内百拾七石四斗三升  村方停穀
    六斗      御下穀
    二拾二石七斗九合
 明治三年四月十四日拝借仕り同四年十一月御返納付に候処御県庁の御沙汰により郷倉へ積置候
   高井野村戸長 勝山宇三郎』

高井野村政の革新

『中野陣屋支配管轄高井野村、受高二千二百十三石二斗九升五合、納米石高六百二十九石八斗五升五合 (之の納租は米相場値段に直し金納とす。 又夫銭(村税)国役(県税に同きもので高に賦課す。) 高井野地籍にして往古新開を起し高受けたる者、括と称し組頭と称して其管轄高の地租を取立て名主へ上納す。 (二ツ石太郎左衛門、牧村二人、中山田村二人、駒場一人、計六人)
 安政四年(1857年)以前(年不詳)、高井野村役元は堀之内組にて梨本弥五右衛門・梨本七郎治・太田才右衛門・篠原源左衛門以上四名にて各番名主役並年寄役を勤めたり、 組頭十人(千本松・堀之内・水沢・中善・久保・上赤和・下赤和−八木沢とも−荒井原・紫・二ツ石)各一名ずつ、百姓代は二人とす。』

『安政四年八月一日より高井野村は六区に分けて各組名主一年宛とし、其組内の人を村総選挙にて当選者選定することに決す。
 千本松・堀之内組で一人、水沢・中善組で一人、久保組で一人、上赤和<八木沢も含む>組で一人、荒井原組で一人、紫・二ツ石組で一人、各番に名主年寄役一名ずつ、百姓代二名、組頭は十人とす。
 右の規約により名主は左記の人たちが勤めるようになったのである。
 安政四年八月 名主 太田才右衛門(堀之内・千本松)
 〃 五年〃     内山金右衛門(水沢・中善)
 〃 六年〃     勝山勇右衛門(久保)
 万延元年〃     篠原万右衛門(上赤和・下赤和)
 文久元年〃     越 伝左衛門(荒井原)
 〃 二年〃     岡村喜右衛門(紫・二ツ石)
 〃 三年〃     中村又右衛門(堀之内・千本松)
 元治元年〃     内山織右衛門(水沢・中善)
 慶応元年〃     勝山勇右衛門(久保)
 〃 二年〃     亀原和太四郎(上赤和・下赤和)
 〃 三年〃     越 伝左衛門(荒井原)
 明治元年〃     久保田重右衛門(紫・二ツ石)
 〃 二年〃     中村丈作(堀之内・千本松)
 〃 三年〃     内山織右衛門(水沢・中善)
      暴動となる』

明治三年名主  水中   内山織右衛門
    年寄役  紫    久保田重右衛門
    百姓代  久保   畦上八左衛門
    〃    赤和   藤沢 為吉
    組頭   千本松  中村久右衛門
    〃    堀之内  太田広右衛門
    〃    水沢   内山喜平治
    〃    中善   小山奥之助
    〃    久保   宮前又兵衛
    〃    赤和   岩崎
    〃    八木沢  藤沢岩右衛門
    〃    荒井原  小出長左衛門
    〃    紫    岡村喜右衛門
    〃    二ツ石  松本 栄蔵』

暴動首魁村に決められた高井野村

『此年維新に際し物価騰貴し米価は前年無比の昇騰し(町相場は一両に八升となる)一円一斗六升の石代を以て納税する向きとなり、人身穏当ならず、 十二月十三日須坂藩暴動発起し、夫より松代及び十九日午後六時中野暴動起り、 領内の邪道を検探の模様によって高井野村は其発起村と認められ、 明治四年(1871年)二月七日突如として中野役所より夫々検挙の上、村役人を名主始め年寄役、百姓代、組頭入牢とし其の他乱暴者と疑えるもの数十人捕縛せられ、 其より中野役所にては無法の吟味をなし、高井野村を右暴徒の首魁村とした。 其尤もの初めは久保組と認定した。
此の認定されたる理由は、十二月十九日宮前勇左衛門なる人死亡し同日午後四時其の人の宅前(現今の持田清作の前の畑)の高き地にて火葬をなしたるに、 況や六時右暴徒等これに呼応したるが如く日滝村境千本松等にて野火を焼するあり、其□□大党等暴挙にいたるにより役所に於いても是れという首魁の探知余りなきに至り、 衆人見る事、火を初めに焚きし場所調査したるに高井野村の久保組の山手に当り焚火ありたるを証言したるものありたるにより、遂に無根の罪名を帯し、久保組の者十三名死刑に処せらる。
高井野村の者刑に処せられたる人には
 死刑打首 内山織右衛門
 年寄役  久保田重右衛門 獄死
 徒刑は中村久左衛門・太田広右衛門・小山奥之助・樽沢良松・宮前又兵衛獄死、 畔上八左衛門病死・徒刑藤沢為吉・小出長左衛門・松本栄蔵獄中病死、 宮前又兵衛・岩崎・藤沢岩右衛門・畔上八右衛門・松本栄蔵・久保組死刑、 勝山幸蔵・勝山末松・十十木助蔵・斬首  勝山油之助・勝山起作・勝山熊兵衛・浦野三太夫・浦野初五郎・岡田新兵衛・浦野文吉・勝山酉之助・竹前文治郎・此人は絞首、 徒刑勝山定右衛門・堀之内黒岩伝之助・堀之内七五吉・新井夕吉・藤沢源左衛門・死刑樽沢良松・藤沢伊代吉・牧伊代吉・小出勇右衛門・石田清吉・井浦富吉』

お聞届取消の証文

『明治三年午年十二月十九日中野暴動の節同鎮撫の為め石代を上より申渡候取消し請書明治四年未正月三十日差出の書面
 (壬申石代は一石に三円四十八銭八毛)
   奏差上申御請書之事
 去午租税石代相場之儀篠塚巡乗属草間松代藩権少参事高野松代藩大属旧臘中暴動人共へ三斗に御聞届に相成候処右者御採用可相成筋に無之候間 兼て御県庁より被仰出候御相場を以て無相違上納可仕 且又右書面中に有之候五ヶ条之儀も同様相心得 向後万一心得違之者有之候はば当人は勿論村役人共迄厳科可被仰付旨被  仰渡一同承知奉畏候依之御受申上候    以上
   辛未正月    高井郡高井野村
             小前惣代 武右衛門
             組頭   久右衛門
   中野県御役所

付 前年午十一月県庁石代は一斗六升(但し町相場一斗二升) 前々巳年不作にて午八月中旬頃より米穀非常に騰貴し籾十円に二俵半までなり わずかに九月中旬より下落し十月に至りて四俵以上になる』

暴動後の村役人

『明治四未年正月、前月暴徒事件名主織右衛門、其他村役人呼出し取糺中にて、仮に名主荒井原越伝左衛門を依頼し、其他年寄役、百姓代、組頭に夫々仮役を選挙し、該事件を処理し、 翌年即ち明治五年七月に至り仮名主越伝左衛門氏辞職するに至り、先例の契約によれば水沢・中善組中途にして止めたるにつき、同組へ回すのが相当なるとの議起こりたり。 遂に高井野村総選挙にするが宜敷との者多数により、選挙の結果久保組勝山宇三郎(当時二十歳)の当選となる。 此時又々協議の上安政四年順回り議定書には追加の約定し、名主に勝山宇三郎就職す。 同年八月一日名主の引継はなしたるも官庁の名義に吏代延引となり十月二十四日長野県庁を以て名主拝命す。』


山岸善一氏の考察

「蒐集記」はその名の示す通り事の記録の羅列であって筆者勝山宇三郎氏の事件に対する私見批判などの記述がないのが残念である。 当時勝山宇三郎氏は十九歳の青年であった。 時局に対する感慨思考等のに最も敏感な年輩である。 殊に勝山宇三郎氏は非常に情熱的性格であったように聞いていることからしても、それだけに惜しまれてならない。 もしその思い切った記述があれば当時の農民の動きがみられて非常に刺激されるのであるが誠に遺憾なことである。 殊に前述の請書についてもただ『明治三午年十二月十九日中野暴動の節同鎮撫の為め石代を上より申渡候取消し請書明治四年未正月三十日差出の書面』と記してあるだけである。 官憲の無法な弾圧に対して批判がましい事はメモする気力も出なかったのではないか、としか推察されないのである。
 処刑された人々の中には未だに墓碑も建立されず野石を二三寄せ集めて墓標として身内の者だけが密にその冥福を祈っているという現状である。
 要するに高井野村は暴動処理の第一手段としてその首魁者を一日も早く検挙しなければならなかった官憲の責任面上の犠牲になったのである。 そしてその犠牲があまりにも悲惨をきわめたのであった。


参考

【両】
金貨1両が4分、16朱、銀60匁・銭4貫文がこれと同価。明治時代以後、俗に円と同義に用いた。
【贋金】
慶応4年閏4月、新政府は「貨幣司」を設置して江戸幕府と同様の二分金、一分銀、一朱銀を発行し、二分金を新政府の主力通貨としたが、金品位は低く、銀台に金鍍金したものも多く製造された。 発行直後から翌明治2年にかけて会津藩・仙台藩・二本松藩・久保田藩・薩摩藩・土佐藩・芸州藩・宇和島藩・佐土原藩・郡山藩・加賀藩・筑前藩・久留米藩などが銀台に金鍍金した二分金の贋造を行ったため、明治政府自身の鋳造した悪価とともに市場には贋二分金が蔓延し、本物が2〜3割しかない状態になっていた。
【石】
1石は10斗、100升、米の場合は通常2俵半
【納米】
米を納入すること。また、その米。年貢米。
【租米】
租税として納める米。年貢米。
【石代納】
江戸時代、租税収納方法の一。年貢米の代りに貨幣を以て上納すること。
【石代】
租米の代りに納める税金。すなわち石代納の金額。
【安石代】
相場より低い価格の年貢米の値段。

米相場

明治維新前後の信州中野地方における米相場の推移
年代 相場(1両当たり) 単価(1石当たり)
文政年間(1818〜1829年) 1石3斗8升   2分3朱149文
天保年間(1830〜1843年) 1石2升   3分3朱172文
弘化・嘉永年間(1844〜1853年)   9斗2升 1両1朱98文
安政〜文久年間(1854〜1863年)   8斗5升 1両2朱206文
元治元年(1864年)   4斗8升 2両1朱84文
慶応元年(1865年)   3斗8升 2両2分2朱27文
慶応2年(1866年)   1斗8升 5両2分223文
慶応3年(1867年)   2斗5升 4両
明治元年(1868年)   1斗4升 7両2朱72文
明治2年(1869年)   1斗1升 9両1朱114文
明治3年(1870年)   1斗2升 8両1分1朱84文

年貢

高井野村の年貢石代換算(納米石高 629石8斗5升5合として)
年代 御値段(1両当たり) 単価(1石当たり) 石代
慶応元年(1865年) 4斗2升 2両1分2朱24文 1,449両2分2朱120文
(慶応元年安石願) 6斗4升8合 1両2分173文  971両3分3朱244文
明治3年 1斗6升 6両1分 3,936両2分1朱125文
(明治3年安石願) 3斗 3両1分1朱84文 2,099両1分227文
明治4年(1871年) 1斗7升2合 5両3分1朱6文 3,661両3分3朱41文

参考にさせていただいた資料

最終更新 2012年 3月 8日

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