高井野の地理>高井野を取り巻く山

三つの月生山

月生山  高山村堀之内にある長野県史跡『福島正則屋敷跡』のあたりから南東の方角には中河原・上野地籍の傾斜地に棚田と果樹園が拓かれ、その奥に標高1,000メートル前後の山並みが連なり、尾根筋は隣接する須坂市との境になっています。

←上野地籍に立ち昇る煙(中河原地籍の南東方向)

今から約400年前、江戸から渋々引っ越してきた福島正則も見上げたであろう景色の中には、現在、国土地理院などの地図に名前の載っている山もありますが、ほとんどの里山には山名の記載はなく、呼び名が人によって異なっていたり、文献に名前が記載されていても地元民はそのことをほとんど認識していない山があります。


坊平(ぼうでら)

トレッキングコースのコース  「桜めぐりトレッキング」で「赤和観音のしだれ桜」から「水中のしだれ桜」に向かってりんご畑の中の道を歩くと、左手に尖った頂が単独峰のように見えます。
 トレッキングの参加者にこの山の名前を尋ねられると、年配の地元民ならたいがい「ぼうでら」と答えます。

←「桜めぐりトレッキング」の道案内

昔、山の中腹にある平らな場所に坊主が住んでいたことから「坊平」と名付けられたという言い伝えがあり、ほとんどの地元民は山の名前が「ぼうでら」だと思っていたようです。

久保地区の小字・俗名
↑久保地区の小字名・俗名分布図(『会報高山史談』より)
 右下隅に「坊平」が見える

ところが久保史談会によって作成された「久保地区の小字名・俗名分布図」には、山の中腹に「坊平」が小名・俗名として記載され、麓には「上平(うわでら)」もあります。
 この「坊平」については、高井村の南に接する園里村(現・須坂市豊丘)の地勢を描いた【園里村全図】に「坊平」という字名の地籍が2カ所記載されています。
 また須坂市の坂田山の中腹にも「坊平」があり、昔、坊さんが住んでいたと伝えられているそうです。
 これらから「坊平」は山名というよりも「○○沢」「××窪(久保)」などと同様に、特有の地形がもとになって生まれた地名を指す呼び名と考たほうがよさそうです。


月生山(つきおいやま)

◎明治の記録

明治初期に編纂された『長野縣町村誌』の「高井村」の項には、高井村の疆域として「南は同郡園里村と、破風ヶ嶽の西峯より、月生山に至る迄の、諸山嶺上を以て境し」と記され、主な里山として高杜山、室岩山、月生山、勝山などの解説があります。

【高杜山】 高さ175丈、周囲1里30町17間、村の東方に在り。
山脈、南は室岩山に駢列す。樹木鬱蒼たり。
登路2條、一は赤和より登る、険にして近し、28町。一は黒部を経て登る、易に遠し、登高1里6町。
【室岩山】 同郡園里村にては寺久保山と云う。
嶺上より二分し、南は同郡園里村に属し、北は本村に属す。
山脈、東は阿久婆山に連り、西は月生山に連接し、北は高杜山に接し、西北は勝山に走る。
【月生山】 同郡園里村にては棚山と云う。
嶺上より三分し、南は園里村に属し、西は日瀧村に属し、東北は本村に属す。
山脈、東は室岩山に連り、西は明覚山に連る。
登路2條、一は瀧ノ入りより、東嶺を越えて園里村に通ずる路線なり。嶺上迄20町険なり。一は水澤原を経て登る、登高28町易なり。
【勝山】 高さ45丈、周囲18町30間、村の東南に在り。
山脈、東は室岩山に連る。全山樹木多し。
登路1條あり、村の東方、水越より嶺上に至る。登高18町。

『長野縣町村誌』の編輯者の勝山武雄氏が居住していた久保地区から手を伸ばせば届きそうなところに聳え、いつも目に入っていたであろう明覚山が【月生山】の西に連なると書かれているだけで【明覚山】そのものは解説されていません。

『長野縣町村誌』と同じころに制作された【高井村図】には高杜山、諸岩山、明覚山、勝山が記載され、諸岩山と明覚山の間で「字河野」と「字細野」を登ったところに名前のない頂が見えています。

高井村絵図
↑明治初期に制作された【高井村図】長野県立歴史館蔵
 掲載許可者:長野県立歴史館(平成24年3月7日)(クリックすると拡大表示します)

この二つの資料を照合することで【高井村図】の中に記されていない「月生山」の位置を特定できそうです。
 まず『長野縣町村誌』に記されている内容から、東から西に【室岩山(諸岩山)】【月生山】【明覚山】の順に並んでいるように読み取れ、【高井村図】の【諸岩山】の西にある頂が【月生山】に当てはまります。
 ところが【月生山】の解説中の「嶺上より三分し、南は園里村に属し、西は日瀧村に属し、東北は本村に属す。」「登路2條、一は瀧ノ入りより、東嶺を越えて園里村に通ずる路線なり。嶺上迄20町険なり。一は水澤原を経て登る、登高28町易なり。」の内容を【高井村図】で見ると【明覚山】になってしまいます。
 これは高井村の疆域の説明とも整合しています。

○隣接する村の記録

●日瀧村

高井村の西に接する日瀧村(現・須坂市日滝)の地勢を描いた【日滝村之図】には高井村との境に「明學山」と記載されています。

日滝村絵図
↑明治14年に制作された【日滝村之図】長野県立歴史館蔵
 掲載許可者:長野県立歴史館(平成24年3月7日)(クリックすると拡大表示します)

 また『長野縣町村誌』の「日瀧村」には、明覚山の東に月生山が接していると記載されています。

【明覚山】 園里村に於ては柵山と称す、高井村に於ては水澤山と称す。
嶺上より三分して、南は園里村に属し、東は高井村に属し、西北は本村に属す。
山脈、東は月生山に接し、西は鳶ヶ岩に連り、北は天狗岳に続す。

●園里村

『長野縣町村誌』の「園里村」には、明覚山の頂上にある『雨引城趾』の解説があるだけで、山の説明はありません。
  【雨引城趾】
    洞入山と内山境の嶺上にあり。

 また【園里村全図】には「字洞入」と「字内山」が記載されていますが、洞入山という山名は書かれていまません。

○二つの【月生山】

江戸時代初期から高杜神社の神官を務めてきた勝山家の九代目で、安政4年(1857年)に若狭守という官職に任ぜられるとともに、寺子屋で子弟の教育をするなど当代の知識人の一人であった勝山武雄氏が、『長野縣町村誌』の編輯に際してはなんらかの根拠に基づいて記録したものと推定され、その根拠を裏付ける資料があれば「明覚山」を「月生山」とした理由や、「月生」の地名の所以、【月生山】の解説に記載されている「明覚山」が現在はどの山を指すのか、といった疑問の解明に役立ちそうですが、手元の資料だけでは詳らかになりませんでした。
 そのため明治初期の地誌や絵図に記載された内容を辿ると二つの【月生山】が存在していることになります。
 1)「久保の月生山」
   久保地区から「字河野」を登ったところに頂のある山
 2)明覚山の別名
   国土地理院の地図に記載されている山、標高958m(最高点は982m)。月生山以外の別名は柵山、水沢山、洞入山、三峯山など。

久保の月生山
↑紅葉の「久保の月生山」

【月生山】(久保の月生山) つきおいやま、標高1,204m
北側は高山村高井久保、南側は須坂市豊丘に属す。
東は諸岩山(1,256m)に接し、西は灰野峠(豊丘では水中峠、865m)を経て明覚山(982m、三角点は957.8m)に連る。
登路はなく、久保から河野、戸狭を経て登る。険阻なり。
中腹に送電線の鉄塔2基が立つ。
流れ出た渓流が久保川となり、水中の樽沢川(たるさわがわ)、赤和の矢木沢川(やんしゃがわ)と合流して千曲川に注ぐ。

『月生城趾』の山

『月生城趾』

月生城趾
↑月生城趾『信州高山村誌』より

近年、戦国時代の山城の研究が盛んに行われ、明覚山から北北東に延びた尾根の麓を水中の集落が取り囲み、遠くからは円錐形の山の頂のように見える場所に山城が築かれていたとされ、『月生城趾(つきおいじょうし)』と呼ばれています。

 上高井郡高山村水中部落の奥に月生(つきおい)城とよばれる山城がある。 中世須田氏の一族が拠ったと信じられる掘ノ内館のほぼ正南方で、標高710メートル、円錐形をした形のよい山である。 月生城とよぶ詩的な城名は当初からのものであるかどうか不明であるが、とくに仲秋の名月の頃この山頂を渡る月の眺めはすばらしい。 そんなところからおそらく後生つけられた俗称と思われるが、この月生城が郷土の人々の歴史意識に大きく上がってきたのはここ数年のことである。
小山義雄「月生城史談」より

○水中の【月生山】

月生山  水中の小山義雄氏が昭和59年(1984年)に寄稿した「月生城史談」に山名の記載はありませんが、平成17年(2005年)刊行の『信州高山村誌』には「月生(つきおい)城は水中区にあり、月生山一帯に築かれている。」と記載されています。
 「月生城」のある山なので「月生山」とされたか、あるいはこの地籍の小字名が「月生」であることから名付けられたと推定され、「明覚山」や「久保の月生山」に対してこちらは「水中の月生山」になりますです。
←【明覚山】と「水中の月生山」

【月生山】(水中の月生山) つきおいやま、標高718m
高山村と須坂市の境にある明覚山から北北東に延びた尾根で、麓からは水沢原地籍と滝ノ入地籍の間に佇立する単独峰のように見える。
頂に山城の跡があり「月生城趾」と呼ばれているが、築城年代や築城者は不明。

三つの【月生山】

tukioijou1.jpg(81325 byte) ↑月生山と月生城趾(カシミール3Dで作成)

高井村の山に関する新旧の資料を辿ると、小山義雄氏いうところの”詩的な名前”の「月生山」が三カ所あることになります。
 もともと山の名前はすべて俗称で、地元で呼ばれていたものが一般的になるとその山の名前として定着するようですが、山や峠の呼び方が向こう側とこちら側で異なることは普通で、地図を制作するときにはどれかを選ぶことになり、なんらかの力関係が作用して最終的に決定されるのでしょう。
 ただ山里の住民が木を切ったり草刈仕事をするには地名(字・小字・俗名)を呼んだり、単に「裏の山」などというだけでみんなに通じていたので、正式な山の名前など知らなくても生活に支障はなく、興味もなかったかもしれません。
 そんなわけで三つある月生山が遠い将来にもし注目されることになったら、「久保の月生山」と「水中の月生山」、あるいは明覚山の別名を含めて三つのうちどれが本家ならぬ本山なのか話題になるかもしれません。


参考にさせていただいた資料

最終更新 2014年 3月10日

上に戻る