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山田郷

高山村の北側、松川の右岸は、中世は山田郷に属し、江戸時代初期になると奥山田村、中山田村、駒場(こまんば)村の3村に分割されました。
江戸中期の山田三ヵ村絵図
↑江戸中期の山田三ヵ村絵図(『信州高山村誌』)


奥山田村

奥山田村は松川右岸の斜面にへばりついたような集落が点在して形成され、今でも村内に奥山田の成立伝承を記した村縁起が残されています。
 「関場」「宮村」「蕨平」「天神原」「荻久保」と「山田温泉」の集落があります。
奥山田地区の字名
↑奥山田地区の字名(『信州高山村誌』)

上空から見た奥山田地区(昭和50年)
上空から見た奥山田
↑空中写真は「国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省」を元に作成

成り立ち

 元暦元年(1184年)に木曽義仲の遺児義基(よしもと)が鎌倉から落ちのびて、 笠岳の東の山中に隠れ住んだ。このとき、藤澤、片桐、安田、窪田(久保田)の四氏が、義基に従って山田郷に住みつき、 彼らの子孫が山田郷内に分散して開発したという。 高山村誌

奥山田村は明治22年(1889年)に中山村と合併して山田村になりました。

関場

古くは西見合野と呼ばれていました。
 木曽義基が鎌倉から落ちのびて奥山田の山中に潜伏した時、追手から義基を守るために関所を立てたことから”関口(関場)”と呼ばれるようになったと伝えられています。
 先祖が関所を作った旧地に藤澤氏が住みついたとされ、藤澤氏は貞和元年(1345年)に村の長に任じられています。
 江戸時代には、上州嬬恋に通じる大前街道の札番所が設けられていました。
 藤澤氏や山崎氏一族によって開発されたと考えられ、現在は”山崎”姓が多くみられます。

宮村

”とや”と呼ばれる沢を中心に人家が作られ、古くは「みやいの」と呼ばれていました。
 天武2年(673年)ころ、三成と諏訪神を合祀して宮を建立したことから「宮村」という地名がつけられ、諏訪神社は山田で最も古い宮とされています。
 字「村先」から平安時代の土師器が出土しています。【村先遺跡】
 藤澤氏と片桐氏、松本氏の一族によって開発されたと考えられ、現在でも大部分のお宅が”藤沢”、”片桐”、”松本”姓です。

蕨平

蕨がたくさん生えていた野原だったことから蕨野と呼ばれていたものが、「蕨平」となりました。
 集落から東の水田にかけて平安時代の土師器が出土しています。【蕨平遺跡】
 安田氏によって開発され、建久7年(1196年)に安田氏が奥山田を独り占めしようとして蕨野に出陣し、藤澤・片桐両氏と対峙したと伝えられています。
 宝徳3年(1451年)に信濃守護・小笠原長持が蕨平を諏訪大社下社の神領として安堵しました。「諏訪大社下社文書」

天神原

人々が住み始めたころは高原野と呼ばれていましたが、保元3年(1158年)ころ、天満宮を建立したことから天神原と呼ぶようになりました。
 文正元年(1466年)12月1日の明け方に大地震が発生し、山が崩れて松川へ崩れ込み、人家がことごとくつぶれ、生き残った家は5軒、9人だったと伝えられています。
 長享元年(1487年)に村が再建されました。
 天明年間(1781年〜1788年)に「ながみね」と「かまや」という村が合併しています。
 望月氏と安田氏によって開発されたと考えられ、現在は”藤沢”姓が多く見られます。

藤沢家には奥山田の成立伝承を記した『倭田邑史(やまだむらし)』が残されています。

荻久保

白い荻の花が咲く窪地ということで名付けられました。
 古くは笹野と呼ばれていたそうです。
 ほとんどが”宮川”姓です。

宮川氏は信濃源氏井上氏の出身で、井上長安が荻久保に住みついて宮川姓を名のったのだという。 宮川長安が荻久保を開発し、地侍となったのは、南北朝から室町時代(14〜15世紀)ごろと伝えられている。 高山村誌

山田温泉

はじめは松川温泉、次に牛窪温泉と呼ばれましたが、後に「奥山田村」の「温泉」ということで「山田温泉」となりました。
 鄙びた湯治場として森鴎外や与謝野晶子などの文人墨客が逗留しています。
 長野と上田の中間にある「上山田温泉」に対して「下山田」と呼ぶ人もいましたが、今は「山田温泉」で充分通じます。

疆域

 東は上州吾妻郡村と、諸山の嶺上を以て界し、西は中山村、北は間山村、寒澤村、佐野村、平穏村と山の嶺を以て境し、南は上州吾妻郡及び高井村、牧村と山嶺、山腹及び松川の中央を以て境す。
『長野懸町村誌』より

奥山田村絵図  明治18年(1885年)に制作された【奥山田村(絵図)】では、牧村との境界が上信国境の黒湯山から老ノ倉山、八滝山、八滝を結ぶ線として描かれています。

↑【奥山田村(絵図)(明治18年)】長野県立歴史館蔵、掲載許可者:長野県立歴史館(平成24年3月7日)
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中山田村

江戸時代には西側の「本郷」と東側の「平塩」の二つの村がありました。
 本郷村には「矢崎」「馬場」「中村」「原宮」の集落があり、平塩村には「中塩」「平塩」「坪井」「横道」「稲沢」の集落がありました。
中山田地区の字名←中山田地区の字名(『信州高山村誌』)

上空から見た中山田地区(昭和50年)
上空から見た中山村
↑空中写真は「国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省」を元に作成

矢崎

川中島合戦のときに、松川の向こうから福井原の福井城に向けて武田軍の放った流れ矢が落ちた場所、ということからこの名前がつきました。
 応永年間(1394〜1428年)には山田氏が館を構え、江戸時代には山田氏の家臣にゆかりの西原氏、武内氏、片桐氏が中心になって村ができたと伝えられています。
 また矢崎の水橋氏は戦国時代の末期に水橋(富山市)から移住してきたといわれています。

片桐家には奥山田の成立伝承を記した『倭田邑縁起(やまだむえんぎ)』が残されています。

馬場(ばんば)

「馬場」と「矢崎」が合併して枡形になりました。

中村

村の中心にあることから「中村」と名付けられました。

原宮

西原宮と呼ばれていたものが、山田神社ができてから「原宮」となりました。
「原宮」は馬場の西原氏の分家が中心となって開発したと伝えられています。
 現在は、中村と原宮が合併して中原になっています。

平塩

”谷街道”の塩止め場として塩を取り扱っていたことから名付けられました。
 ”谷街道”は、越後の十日町から飯山、小布施、須坂を経て稲荷山(現・長野県千曲市稲荷山)へ行く街道です。
 越後から塩、昆布、魚などの海産物が船で飯山まで運ばれ、飯山からは馬で平塩まで運ばれてきます。
 平塩で別の馬に荷を積み替え、上州方面に運ばれました。

「平」は山の斜面を呼び、「塩」はその土地の土目が赤土の粘土の場所に付けられるという説もあります。
 ”牧”と”山崎”姓がほとんどです。

中塩

平塩と同じく、谷街道の塩止め場として塩を取り扱った場所であったことから名づけられました。
 松川のふちを通っていた道を”塩街道”とか”塩の道”と呼んでいました。
 中塩で分かれた道は、福井原から大前街道に入って行ったものと、万座へ行ったものとがありました。
 平林氏と山崎氏によって開発されたと伝えられ、戦国時代に平林氏が中山堰を引いています。
 井戸の西に”山崎”東に”平林”姓が今でも多く見られます。

坪井

古くから「坪井」という地名があり、「日本彼岸桜見立番付」で西の小結に選ばれている”坪井のしだれ桜”は、約500年前に植えられたものと考えられています。
 もともと清水の湧くところを「坪井」と呼び、それが地名になったようです。
 先祖は黒部の人たちとともに上州小雨村(群馬県中之条町)から移住してきたと伝えられています。
 ”宮崎”、”毛利”、”湯本”姓がほとんどで、”湯本”姓は上州草津温泉の湯本氏の流れといわれています。

横道

お宮を中心として、横に走る道があることから「横道」と名付けられました。
 戦国時代に関原氏が山王社(日吉神社)を祀っています。

稲沢

朝日長名という豪族が所有する坪内という土地があり、かつては沼だったものが稲の産地になったので「稲沢」と名付けられました。
 稲が多く作られたことを物語る「千石」という地名があります。
 現在は、坪井、横道、稲沢が合併して、三郷になっています。

統治の移り変わり

大化(645年〜650年)の頃 国府領
治承3年(1179年) 山田高梨氏領
文明16年(1484年)5月 高梨氏領
永禄2年(1559年) 武田晴信領
天正10年(1582年)3月 森長可領
天正10年(1582年)6月 上杉景勝領
慶長3年(1598年) 北信濃が豊臣秀吉の直轄地
高井郡は田丸直昌領
慶長5年(1600年) 森忠政領
慶長8年(1603年) 松平忠輝領
慶長15年(1610年) 松平遠江守領
慶長18年(1613年) 花井主所領
元和2年(1616年) 徳川幕府領
元和5年(1619年) 福島正則の支配地 高井野藩
寛文元年(1661年) 甲府藩領
元禄14年(1701年) 幕府領
寛政 4年(1792年) 椎谷藩領(新潟県)
明治2年(1869年)6月 椎谷藩
明治 4年(1871年)7月 椎谷県
明治 4年(1871年) 長野県管轄

中山村

中山田村は明治8年に駒場村と合併して中山村となりました。

疆域

 西は不動山、西原山の山嶺を以て、雁田村に界し、北は瀧ノ入、矢崎山の連峯を以て、櫻澤村に接す。 又大熊坂の山頂より、三ツ和に界し、間山坂、赤林、御堂、沖の平、北ノ入の諸山の嶺上を以て、間山村に界し、 東は臼平、油窪、平塩の連峯を以て、奥山田村に隣し、南は日瀧村、高井村、牧村と、松川の中央を以て界を分つ。
『長野懸町村誌』より

中山村絵図  明治13年に制作された【中山村(絵図)】には奥山田村をすべて含み、横手山、池ノ塔山、乳山、満山、黒湯山が上信国境として描かれ、牧村との境は黒湯山から八滝までとされ、『長野懸町村誌』の記述とは大きく異なっています。

↑【中山村(絵図)】長野県立歴史館蔵、掲載許可者:長野県立歴史館(平成24年3月7日)
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駒場村

古来、信濃の馬は駅伝馬に使われ、高井牧でも上馬を選んで貢馬していました。
 生まれて2歳までの子馬は駒場で飼育し、3歳になると馬場へ連れて行って調教したそうです。
 駒が育つ場所ということで「駒場」と名付けられたそうですが、みんな「こまんば」と呼んでいます(須坂市の馬場という地名は「ばんば」と呼んでいます)。
 駒場では牡馬だけ飼育していたともいわれています。

延元3年(1338年)に記録された「高梨文書」には「信州東条庄山田郡小馬場村」とあり、これが「駒場村」の初出だとされています。
 大部分が”涌井”姓です。

駒場村は明治8年に中山田村と合併して中山村となりました。

統治の移り変わり

大化(645年〜650年)の頃 国府領
治承3年(1179年) 山田高梨氏領
文明16年(1484年)5月 高梨氏領
永禄2年(1559年) 武田晴信領
天正10年(1582年)3月 森長可領
天正10年(1582年)6月 上杉景勝領
慶長3年(1598年) 北信濃が豊臣秀吉の直轄地
高井郡は田丸直昌領
慶長5年(1600年) 森忠政領
慶長8年(1603年) 松平忠輝領
慶長15年(1610年) 松平遠江守領
慶長18年(1613年) 花井主所領
元和2年(1616年) 徳川幕府領
元和5年(1619年) 福島正則の支配地 高井野藩
寛文元年(1661年) 甲府藩領
元禄14年(1701年) 幕府領
寛政4年(1792年) 松平周防守
文政5年(1822年) 幕府領
天保7年(1836年) 松平周防守
天保8年(1837年) 幕府領
明治元年(1868年)1月 尾張藩取締
明治元年(1868年)8月 伊那県
明治3年(1870年) 中野県
明治 4年(1871年) 長野県管轄

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参考にさせていただいた資料

最終更新 2018年10月17日

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