山ノ内町から国道292号・志賀草津道路で志賀高原に上り、長野・群馬県境の渋峠から少し先の最高地点を越えると前方が突然開け、白煙が立ち上る白根山の裾の山間に日本三名泉の一つ上州草津温泉の市街地が目に入ってきます。
江戸時代から昭和時代まで、北信州から草津温泉に通じる山道を湯治客や温泉旅館用の食糧・物資を載せた牛馬、善光寺参りの参詣人などが行き交い、「草津道」や「草津街道」、「草津温泉道」などと呼ばれていました。
↑芳ケ平と草津市街地、白根山、本白根山、遠くに榛名山
江戸時代の北信濃と北上州から江戸とを結ぶ経路には草津道、毛無道、三原道および大笹街道の四つがありました。
このうちもっとも北の草津道は、中野・湯田中・佐野・沓野(山ノ内町)から渋峠を越え芳ヶ平を抜けて草津村、入山村(群馬県吾妻郡草津町、六合村・現中之条町)に至る道筋です。
また山田温泉から松川北岸を遡り、山田峠を越えて芳ヶ平で沓野からの道と合流して草津に至る山田道も地元では草津道と呼んでいました。
↑江戸時代末期の善光寺と北上州の交通網(『信州高山村誌』)
志賀高原・横手山の”のぞき”に立って松川源流の谷底から白根山の方向を眺めると、対岸の笹藪の中を山田峠に向かってジグザグに登って行く小経が目に入ります。
これは利用されず廃道になっていた道筋を「信州高山村古道復活の会」のみなさんが平成17年(2005年)から9年の歳月をかけて再整備した草津道(山田道)です。
↑坊主山中腹を通って山田峠まで復活された草津道(山田道)
江戸時代中期の元文年代(1736年〜1741年)より以前から、駒場・中山田・奥山田の村々が上州国境までの入会山で山仕事をするための道を切り開いて利用していました。
江戸時代末期の弘化2年(1845年)には、牛窪(山田温泉)の庄蔵(藤澤)が実地調査をし、笠岳山頂に「山の神」を祀り、参詣人の通路ということも開設の理由として、安政2年(1855年)に小経を貫通させています。
その後、中山田村の百姓与五郎を中心とした湯場稼ぎ人によって小径の改修工事が行われ、安政5年(1858年)に完成しました。
この道筋は牛窪湯(山田温泉)の裏山を北にのぼり、山田温泉スキー場のある上平(うわだいら)を起点として東に向かい、かるい沢・八滝(やたき)の対岸の湯平(ゆだいら)を通り、途中で万座峠方面へ道を分け、渋峠より池ノ塔山を挟んで西の山田峠を越え、芳ケ平を通り抜けて草津に達する長い行程です。
明治13年(1880年)ころ県に報告した『長野県町村誌』には、奥山田村の主要道路として
「草津温泉道、三等道路に属し、奥山田村の西の方牧村境より東の方上州吾妻郡境に至る。道幅9尺」
とされています。
↑【奥山田村(絵図)(明治18年)】長野県立歴史館蔵、掲載許可者:長野県立歴史館(平成24年3月7日)
渋峠を通る草津道が県道に昇格したことに対抗して、明治25年(1892年)に長野県山田村・小布施村・都住村と群馬県草津村が連名で、山田峠越えの草津道の県道昇格を請願する「県道変更願」を提出しました。
県道変更願
長野県下上高井郡山田村小布施村都住村群馬県下吾妻郡草津村村長等謹で長野県群馬県両県下に跨れる県道変更を要するの事実理由左に開陳仕候
抑も長野県より群馬県下草津地方に通ずる道路については、下高井郡渋峠を主たる線路となし之を改修したりと雖も、之もとより該道路の実態において交通の便を産出すべき資格を要するに非ず。
その故たる該線路は峰攣相連なり山脈連続すること他にその比を見ず。路面を広め凸凹を修ると雖も天然の地形に因由する勾配は制せんとして制する能ず。
是に置いてか表面の改修なると雖も、その実行挙がらず。
即ち交通に運輸に皆牛馬の力を藉りざるを得ざるの実際にして、その結果は草津地方の物価をして依然高価ならしめ旅客の交通もまた、その便を加えざるの状況あるなり。
況や物品供給の便否に至りては下高井郡と上高井郡とは啻に霄壌の差のみにあらず。
之を上高井郡に仰がんか、北越地方の特産、関東地方の物品之、豊野停車場に卸して直接に運搬し得べく。
之を現在の如く下高井郡を経由せしむるに於いては啻に里数の倍延するのみならず道路険悪をもって、勢い運賃に多額を投ぜざるを得ざる也。
草津地方の他に比し物価の無類に高価なるは、それ之が為なり。
これ啻に草津地方人民の不便のみに止まらんや。
然るに此路線を長野県下上高井郡より群馬県下吾妻郡北部に方針を採る時は、その道途の難易、交通の便否、全く前者に反対するの利益あるを認む。
即ちその線路は豊野停車場より平坦抵の如き新道を経て小布施、山田を通して上州白根硫黄場に達し、夫より草津に至るの道筋にして、仮に渋峠最高と山田峠最高との比較上、その差1千尺余、丁数260丁余にして、およそ4寸勾配をもって完全なる道路に改修し得べく、頼って以って荷車人力を使用すること容易なりとす。
されば地方人民は一方に県道ありと雖も此道路の改修を希望すること、切にして普通の往来の如き、却って此方に多きを致せる事実あるなり。
之蓋し実利の帰する所を察するに足らんか。
若しそれ前者に代えるに後者を以ってし、此路線を以って群馬長野両国の県道に編入せらるるあらんか。
一は県道その物の実効を奏し、一つは交通の度を一層頻繁ならしめ敷いて草津地方の物価を低下せしむるの益あるなり。
之に加え、白根山の硫黄は天下に著名なる物にして其製造の簡易なる、其産出の無尽蔵なる、他に其比を見ず。
目下東京市民藤沼起晴なる者其筋の許可を得て、其業に従事せるが、其歳月の浅きにも拘らず本年の如きその製造額1万駄以上に及べるも前記運搬の便、之が無きが為有用の物品をして空しく山中に積堆せしむるに了す。
抑も硫黄は外国輸出少しとせず。
坑主は一大富源を埋没せんことを恐れ、一に道路の開通に焦慮し、曩に技師をして実地を測量せしめしに、数日間踏査の後、前記通路の天然の地形に空しく改修を加うるにおいては完全なる道路を得、交通の便全きに至る事を測定証言したりと云えり。
それ道路の要、今さら喋呶の便を待たずに上来陳述する如く両国交通の上に物産需給の上に今復一大特産製出の上に至大の関係を持てること、かくのごとくなる上は、仮令一方は既定県道の地位に有といえども、姑息の計以って之を等閑に附し去ること、豈百年の計を得たりとせんや、況や両県下沿道及び関係人民の県道変換を熱望すること、日一日に切実を加え得るの実際なるをや。
伏して乞う、前陳述の事情御高容の上速やかに技師を派遣ありて、実際を測量せしめ、もって自分共の希望を全うせしめられんことを、此段懇願の至りに堪えざる也 誠恐頓首
明治25年12月6日
上高井郡山田村長宮川太右衛門 印
しかし沿線住民の要望は実現されず、県道にはなりませんでした。
そこで明治31年(1898年)、郡会議員久保田慶祐(高井村選出)が臨時郡会を請求し、議会に草津街道改修の建議書を提出しています。
建議書
本郡枢要里道草津街道ハ道路険悪山田村ノ地ニ至リテハ殊ニ甚ダシク、姑息ノ改修ハ到底実効ヲ奏スベキニアラズ。
故ニ之ガ改良ヲ為スヤ、大ニ其路線ヲ変更改修シ、以テ之ガ面目ヲ一新セザルベカラザルナリ。
今ヤ幸ニ高井村ヨリ之ガ経費ヲ寄付シ、改修起工ノ稟請ヲ為セルアリ。
之ヲ採テ速ヤカニ改修ノ土工ヲ起シ其完効ヲ図ルハ郡ノ公益ヲ進ムル大ナル事、言ヲ要セズ。
閣下宜ク之ヲ精査シ速ヤカニ、該予算ヲ本会ニ提出セラルルヲ望ム。
茲ニ本会ノ決議ヲ以テ及建議候也。
上高井郡会議長 清須 勝祥
明治31年8月
上高井郡会議長 清須 勝祥殿
こうした活動によって荷車が通れる道路に改修されました。
↑草津道(山田道)と北国東街道(毛無道)(『信州高山村誌』)
昭和7年(1932年)6月に長野市、須坂町、高井村、山田村、中野町、平隠村の各市町村長連盟で「府県道 硯川中野線改修並に須坂山田線延長工事施工申請」という陳情が、県知事宛になされました。
須坂山田線の延長工事というのは、須坂町より山田温泉を経て、芳ヶ平平で硯川中野線と合流し、草津温泉まででありました。
ところがこの陳情に障害がありました。それは山田温泉は通過するだけで、客は万座温泉に吸収されて、営業上死活問題であると反対があったようです。
そのために一時運動は停止した形となりました。
湯本宗蔵「万座道」より
江戸時代後期、白根の硫黄鉱山が開発され、鉱山で必要な物資を牛の背に積んで山田道を運び上げ、帰りは採掘された硫黄を運び下ろしました。
草津で使うための越後の塩を山田道で白根山まで牛で運び、そこで草津の人に引き渡しました。
明治8年(1875年)、奥山田村に「人馬周旋方」が設立され、山田温泉から草津や須坂・小布施・中野・長野までの賃銭が定められました。
山田温泉−草津温泉間
駕籠一挺 1円43銭7厘5毛
人足飛脚 50銭
牛1疋 65銭5厘
明治時代後期に満座(万座)温泉が湯治客で賑わうようになると、湯治人や食糧などを牛や馬で運ぶ賃稼ぎが盛んになり、山田道から分岐して万座道が開かれるまで利用されました。
←万座牛方稼ぎ(七味上地獄沢の桟道『信州高山村誌』)
大正時代に横手鉱山(硫黄鉱山)が開かれ、鉱山の資材や食料を馬で運び上げました。
昭和30年(1955年)に山田峠の避難小屋が建設されたときは、セメントやブロック等の建設資材や諸材料を山田側から索道で横手鉱山まで上げ、終点から山田峠まで馬の背で運びました。
製紙会社がパルプ用にブナ、カンバなどの広葉樹を調達した際、山田道の上方で伐採した材木を道まで落とし、そこでリヤカーに積んで集材場まで運搬しました。
山田道の往来の安全を守護する百体観音が山田温泉の牛窪神社前と山田峠に、山ノ神が虎杖橋北尾根の道路脇に安置されました。
←山田温泉の一番観音
【如意輪観音】
←山田峠の百番観音
【千手観音】
江戸時代末期の安政年間(1854年〜1860年)に、沓野・湯田中・佐野(山ノ内町)の三か村から山田側(中山田村・奥山田村)に抗議が持ち込まれました。
「われわれ三か村は、前々から沓野方面と草津・入山(群馬県吾妻郡六合村、現在は中之条町)とは交易を続けてきている。また草津入湯人の世話や、それらの人びとの宿泊料などで生計を保っているところへ、山田道を改良して客を取られてしまったのでは、当方の暮らしが脅かされ迷惑千万だ」
これに対して山田側からは
「上州境までの山稼ぎ道に手を加えただけで、旅人の世話や荷物運びなどは一切するつもりはない」
という意味の一札を三か村に差し出して一件は収まりました。
昭和40年代には炭焼きなどの山仕事が減少し、さらに山ノ内町から草津町に通じる自動車道路が開通したため、山田道は利用されなくなりました。
昭和50年(1975年)に高山村が統合小学校建設費用を捻出するため山田入と奥日影地籍の村有地463町歩を国に売却した際、国によって境界の測量と境界杭打ち及び立木調査が実施されました。
このときすでに牛馬や自動車で境界杭を運べるような道路はなく、測量のため折れ線状に切り拓いた林間や尾根筋を作業人足がコンクリート製境界杭を背負って運び、測量点に埋設しました。
また同年、高山村は山田入・奥日影地籍の村道路線を廃止しています。
昭和50年(1975年)頃、黒部の湯本宗蔵氏が五色・七味温泉から「旧草津街道をハイキングコースにして欲しいが、コースとして可能か見聞して欲しい」と依頼され、草津道(山田道)の踏査を行っています。
湯本氏は七味温泉から山田峠に登ることは困難であると予想して山田峠から下ることにし、群生している高山植物の中で道を探しながら、削り取られ赤肌の場所、橋が流された箇所、木や草に覆われた道、周囲を見渡せない谷の中などを通り、四苦八苦して横手鉱山跡に到着しています。
その後、松川に添って下り、滝に阻まれたり山と谷の上り下りを繰り返し、出発から7時間の苦闘の末に渋沢の合流点まで辿り着いています。
結局、山田道をハイキングコースにすることは相当に困難であり、整備すると高山植物が荒らされることにもなると報告しています。
湯本宗蔵氏の踏査から30年後の平成17年(2005年)、古道「草津道(山田道)」をトレッキングルートとして整備しようと「信州高山村古道復活の会」(小林喜生会長)が古道の修復作業に着手し、山田温泉から山田峠までの道を平成25年(2013年)に開通させました。
←古道地図(須坂新聞)
要所要所に看板が設置され、春のオオヤマザクラと秋の紅葉シーズンには七味温泉から金山平までの古道でトレッキングが開催されています。
←馬頭観音入り口の案内板
草津道は江戸時代には「沓野越道」「草津山道」「山越抜道」などとも呼ばれ、沓野より十二沢、沓打、法坂、平床原、硯川、横手山中腹、渋峠、芳ヶ平から草津、入山へ至る7里半の行程でした。
江戸時代の初期から「山稼道」として利用されていた山道が、やがて草津村まで通じるようになると、商品流通や旅人往来に利用される非公式の「山越抜道」に発展しました。
これは公道の大笹街道を経由するよりも距離が短いこと、草津―善光寺間の旅人を運ぶ駄賃稼ぎができること、草津温泉の入湯人増加による消費性の増大に対して中野市場で集積した米穀・油・酒・醤油・野菜・魚・木綿などを運べることなどの諸理由があります。
草津道による交易が盛んになると、従来から草津と関係のあった大笹街道側の仁礼・大笹の両宿と利害が対立することとなり、文政8年(1826年)に争議に発展し、翌文政9年(1827年)10月に湯田中・沓野・佐野・草津・入山の5か村と仁礼・大笹両宿との間で示談が成立して、条件付きで草津道が公認されました。
明治に入って草津道は県道前橋街道として改修され、商品流通は最盛期を迎えました。
やがて1893年(明治26年)の信越本線全通や1926年(大正15年)の草軽電気鉄道開通、その他の運輸機関の発達に伴い、草津道は次第に衰退しました。
昭和10年(1935年)から草津道を改修した車道の開発が始まり、昭和40年(1965年)8月17日に主要地方道中野・長野原線が「志賀草津高原ルート」という愛称で開通し、渋峠をはさんだ上林―草津間41.1kmの区間は一般有料道路「志賀草津道路」となりました。
昭和45年(1970年)4月1日に一般国道292号(群馬県吾妻郡長野原町−新潟県新井市)が指定され、道路公団によって上林−草津間の改修・舗装が完了しました
その後、平成4年(1992年)11月17日に「志賀草津道路」は無料開放され、一般国道となっています。
渋峠から群馬県側に700mほど進んだ地点に「日本国道最高地点」の碑が設置され、草津道の経緯などが記されています。
日本国道最高地点
国道292号・志賀草津高原ルート 標高2,172m
かつて善光寺から草津へ行きかう旅人で賑わった草津街道は、志賀草津高原ルート・国道292号線と姿を変え、湯田中渋温泉郷から志賀高原・白根山を抜け草津温泉に至る全長46kmの風光明媚な山岳道路として多くの人々に親しまれています。
ここは、標高2,172mと日本の国道の中で一番標高の高い地点です。
また、長野県・群馬県の県境に接し尾根を走るこのルートは、山田峠を中心に分水嶺をなしており、長野県側に落ちる松川は峠の沢に端を発し、千曲川を経て日本海へ注ぎます。一方、群馬県側は、日本有数の酸性河川である大沢川・谷沢川から利根川を経由して太平洋へと流れ込んでいます。
↑志賀草津道路の山田峠附近 横手山、乳山、池ノ塔山、避難小屋
上信越高原国立公園内の絶景を眺望できる志賀草津道路は『日本百名道』に選定され、自動車やオートバイだけでなく自転車でも訪れる人が多い国内有数の観光道路として賑わっています。
↑山田道と国道292号志賀草津道路(国土地理院地図)
最終更新 2019年 2月 4日