高井野の地理高井野の水利

八木沢川(やんしゃがわ)〜鮭が遡上した清流

八木沢川と諸岩山 千曲川支流の八木沢川は、途中で合流する久保川、樽沢側とともにカジカやサワガニ、ホタルなどが生息し、かつては日本海からサケが遡上してきた清流です。
 赤和の篠原一郎さんによる八木沢川源流の解説と紫の米村佐七さんによる八木沢川にサケが遡ってきた話、高山村公民館長・青木廣安さんによる八木沢川の概要解説を抜粋して紹介します。

←赤和地区を流れる八木沢川と諸岩山

八木沢川
↑八木沢川、松川、千曲川(「川の名前を調べる地図」より)


八木沢川の源流

諸岩山  標高1,050米の諸岩山を主峰とする諸岩連山は、南は須坂市大谷山を起点として明覚山980米より連なる。 裏側を奈良山を経て上信越破風高原に至る。北側は高杜山・紫祢萩を連ね荒井原城山に至る。この両連山の中心盆地が赤和部落となる。

←諸岩山と赤和集落


 ↑諸岩山と八木沢川

諸岩山頂の大岩  諸岩山の岩場は高さは高くないが広大な岩場であり、大きな岩がブロック状に広がり雄大な岩場が展開しつつあり、岩上一帯は高山性植物が群生、石楠花、どうだんつつじ、紫つつじ、ひば、その他多く密生しており、貴重な場所である。 この岩を遠くより眺めれば一段とよく見えて山の指標ともいえるであろう。岩の下面は雨宿り程度の穴場があってヒサシ状の岩のふちである。

←諸岩山頂の大岩

岩場より下りて300米位の所に点々と湿地があって、南下河原坂附近より小さな流れとなる。これが八木沢川の源流である。 このあたりより沢が深く深堀から湯坪を通り山の神南の沢で細沢方面の湧水と合流して水量も増し深い沢の流れとなる。 湯坪は深い沢であり白色の湯花に似たものが川底にありこの名がある。 細沢方面の水は坊平山より続く細沢で湿地となり沢山の水がある。 これより下は地下へもぐり流れはないが、山の神南の沢で湧水と考えられる。
古赤和の渓流 之より暫く流れ、取入口で二分され赤和上組谷地方面の用水となり、古赤和よりの水も谷地で合流する。

←古赤和の渓流

八木沢の合流箇所  赤和部落の水は全部八木沢で合流して一本の川となり八木沢川となる。

←八木沢の合流箇所

 この川も荒井原・堀之内と流れ、久保、水中の川も堀之内で合流、その他、樋沢川より取入た水は、荒井原から堀之内裏から千本松と流れ、高橋地域で川へ入って大きな河川となり、相之島で千曲川に入る。 この間12キロを八木沢川と呼ぶ。
篠原一郎「八木沢川源流を訪ねて」より


八木沢川に遡上した鮭

信濃の国は山高く、水清く、多くの河川があります。善光寺平を延々と流れる千曲川は、古き時代には多くの鮭がとれたといいます。
 信濃の国の国主が、京都の宮中へ鮭の干物を多く献上したということです。鮭は産卵のために、清流を求めて千曲川をさかのぼり、産卵して海に帰る。
 鮭の卵は、ふ化してまた川を下り、海に行き、三年か四年を経て、一人前になると、また自分の生まれた処に必ず登って産卵に来るといわれております。 八木沢川は赤和の諸岩を源流として高井野原を日滝、須坂、豊洲を過ぎ、相の島の北で千曲川に合流致します。 八木沢川は最も清い流れです。

 私ども子供の頃は、八木沢川へ魚を取りに行ったものです。
八木沢川合流点  明治四十五年の頃、堀の内の梨本義雄さんの裏に、水中より流れる用水路があり、八木沢川に合流する地点近くに住む毛利住職(山田の坪井より出た人)氏が、朝、顔を洗いに行き、川に大きな鮭が八木沢川を登って来ているのを見付け、あまり大きな魚ゆえびっくりして取ったが、珍しいので役場へ持参したという話を、堀の内の古老より聞きました。

←八木沢川と久保川・樽沢川の合流箇所(堀之内)

 鮭は産卵のため川を登る時、背中半分位の浅瀬でも登るという。

私は幸いにして、八木沢川を登って来た鮭を見ました。 今より六〇余年前のことです。 大正四年十一月中旬。 霜の大降りの朝、須坂の農学校へ登校の際、千本松の前、現在の三興食品会社まで行くと、日滝本郷の人が四、五人で大騒ぎして八木沢川を登ってきた鮭を追っておりました。

↑日滝の溜め池と鮭の捕獲地点

登校の途中ですので、とる所の状況は見ることが出来ませんでした。 午後、学校より帰る時、日滝の堤ドテの前に越勝左右エ門さんという下駄屋さんがあり、その庭に大きなタライに水を張り、生きた鮭を通行人に見世物として置いてありました。 長さ一米位、目方四キロ位と見ました。 色の生々とし、腹下が赤色でした。 八木沢川を登った鮭はこれが最後と思います。 その後は八木沢川を登った鮭の話はありません。

大正時代に入って、越後と信州の境、西大滝発電所ができ、ダムのために千曲川には鮭が登らなくなったと言います。
 また、大正四年に、高井村湯沢線の奥に大日本硫黄株式会社、(後の小串鉱業)が硫黄鉱山を始めた為に、樋沢川は強酸性になり、その分流が揚水堰尻で八木沢川に流入する為、八木沢川も酸性の水となり、魚類が住めなくなったのです。
 今、八木沢川に鮭や鯉、鮒子が多くおったなら、どんなにか楽しみなことかと思うと、残念で仕方がありません。
米村佐七「八木沢川の鮭」より


生命を育んできた川

八木沢川  八木沢の川べりは全て三面護岸になった。堅固だが、川の風情が消えてしまった。 昔はカジカやドジョウ、サワガニもおり、オニヤンマやホタルの幼虫も棲息した。 子どもたちは川をたたんで泳ぎをした。子ども時代を育んでくれた、ふるさとの川だった。

←八木沢川

八木沢川は歴史のふるさとでもあり、太古からの高井の人々の命をつなぐ生命の源であった。 旧石器時代から、縄文・弥生人が川べりに跡を残している。 古代には高杜社を祀り、中世には山城を築いた人々が沿岸に田を作り、浜井場でその年の吉凶を占った。
 八木沢川の源流は赤和の奥の諸岩。高井の山裾をめぐって南流し、やがて松川と合流し千曲川に注ぐ。 八木沢川の名は、「八木沢(やんしゃ)」に由来する。 この辺りの家が「やんしゃの家」と呼ばれるのは、その証である。
青木廣安「生命を育んできた川―八木沢の川べり」より


赤和・久保地区の小字・俗名
↑赤和・久保地区の小字名・俗名分布図(『会報高山史談』より)


参考にさせていただいた資料

最終更新 2017年 6月19日

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