↑平沢用水で潤う集落と棚田(2008.9.20)
平沢用水は古くから水越地籍の水田用水と飲み水などの生活用水に利用されただけでなく、水量の少ない久保川を補って久保地区の広範囲に生活用水と灌漑用水などを供給してきた久保区民にとって必要不可欠な用水です。

↑久保の集落と耕作地、水利(国土地理院地図・空中写真閲覧サービスの1948年10月撮影空中写真をもとに作成)
平沢用水は、赤和の平沢原から上堰(うわせぎ)と下堰(したせぎ)の2本の水路で勝山の尾根を越えて久保の水越地籍に流下する生活・農業用水です。
上堰と下堰を合わせて平沢水路と呼び、水越の下端で合流してから、集落の中を流れる久保川に合流します。
平沢原の湧水・沢水を集めて勝山の中腹を緩やかに西へ進み、尾根から急勾配で水越の上部に流れ落ち、水越の水田と民家に分水しながら下部まで流れる水路が上堰です。
←上堰の源流となる沢水
←赤和共同墓地の脇で上堰の水を引き込んだ「平沢の池」
林道に沿って流れる途中で、下堰に分水する分水桝
←勝山の急斜面を下って林道脇の桝に流れ落ちる上堰
この桝には上水道の久保配水池から出た余剰水が合流
豪雨時に下堰から分水した水も合流
←田植えが終わった水越の棚田(2018.6.2)
←民家に配水して池で鯉を飼う
←池からSSで吸水して上野地籍の果樹園に潅水
八木沢川(やんしゃがわ)の砂防ダムから取水して林道沿いに西へ進み、勝山の尾根から急勾配で水越の中間に流れ落ちる水路が下堰です。
←砂防ダムに設けた下堰の取水口
←分水桝
豪雨などで堰が溢れる恐れがあるときは上堰に分水
←勝山の尾根から下って林道脇の桝に流れ落ちる水路
←林道を横断して勝山の急勾配の斜面を下る水路
←棚田に配水
ため池で貯水
←上堰と下堰の合流
←久保川に沿って作られた蛍公園に平沢用水から分流して注水
平沢用水から落ちる水の量は、久保川(右)から流れ込む水の量よりも多い
←蛍公園の下流で久保川に流入
久保川に合流した平沢用水の水は、公会堂の下で一部取水されて周囲の生活用水と上野地籍の農業用水に用いられます。
さらに下流の水中橋の下でも取水されて中河原地籍の水田用水に利用され、中河原の下端でまた久保川に戻ります。
←中河原の取水口
←田植えが終わった中河原の水田(2024.5.30)
平沢水路の管理は久保区長の重要な任務の一つで、集中豪雨や台風などで堰が氾濫しないようにします。
下堰は春の耕作時期が近付くと水門を開いて通水し、お盆には水門を閉て台風シーズンに備えます。
大雨で水路が氾濫して赤和地籍の畑に大量の土砂が流出した場合は、久保の役員や区民が総出で土砂を片付けます。
また迷惑を掛けた畑の所有者のお宅へ区長が酒を持ってお詫びに行くのが倣いです。
区の年中行事の一つで、4月に各戸から1名が参加して道路とや水路の整備をする「道普請(みちぶしん)」を行い、このとき5組と6組の住民は平沢水路の整備を行い、下堰は5組が担当し上堰は6組が担当します。
山の斜面にコンクリートのU字溝を敷設した水路なので、春になるとたくさんの泥や木の葉が溜まっていて、特に最近はイノシシがクズの根を掘って土手を崩すので、大量の土砂が流れ込んでいます。
土砂や落ち葉を水路から掬い上げる作業はかなりの重労働です。
←堰上げ作業
このため「おてんま作業」でコンクリート製の溝蓋を敷設しました。
「おてんま作業」とは高山村から材料だけ支給され、作業は受益者が手弁当で行う事業のことです。
これで水路に流れ込む土砂はほとんどなくなり、道普請の作業がずっと楽になりました。
←おてんま作業
久保地区の裏山の勝山の南側斜面にある水越地籍では、昔から棚田で稲作が行われてきました。
集落の中心を流れる久保川は水越地籍よりも低いところを流れるため水田の潅漑用水としては利用できず、勝山を越えた赤和地区の平沢原から水を引いて利用していることから「水越」と名付けられたといわれています。
←「水越」の棚田(2015.7.20)
江戸時代初期、初代高井野藩主・福島正則が平沢用水を他所まで引くことを企てたと伝えられています。
「福島堰」
福島正則が字赤和より勝山の中腹を経て、久保の中程より水中原に引き、水中原を水田たらしめんとせしが、事失敗に終わり、今は徒に山道として痕跡を止むるのみ。
勝山忠三『上高井歴史』より
←福島堰の痕跡と伝えられる山道
文政4年(1821年)6月は過去数十年にもない旱魃で雨が降らず、飲水に困った下赤和組の住人が下堰を破壊して水を引いたことから久保組と水争いが勃発しました。
この時は村役人の裁定で、雨が降って水が流れるまでの間に限り、時間を区切って下赤和と久保に水を流すことが決まりました。
平沢用水の水利権が久保組にあることと、大雨の時に水路から水が溢れて赤和の山や畑を荒らさないように久保側で引き取ることも合わせて決定しました。
この時の顛末と決定事項を記した『差上申一札之事』という表題の内済證文が重要書類として久保区に継承されています。
←内済証文の冒頭部分
昭和31年(1956年)に簡易水道工事が施工され、久保の水源に平沢用水が利用されました。
山林が多く集水面積も相当あるが樋沢川があまり酸性水のため飲用に適さず加えて、水中・久保・赤和部落は、水田用水にも事欠く状態にあり、ほかの集落は樋沢川に頼っていた。
水源探しはたいへんなものであった。
久保は赤和地籍の平沢湧水に目をつけ、あわよくば赤和までと考え区長に申し入れた。 ところが、区長いわく、この水は赤和で豪雨のとき八木沢川が氾濫するので久保でもらって欲しいと文書に酒2升をつけてきた経緯があり、現在は水越他の地籍の水田用水となっているから耕作者の意見を聞くが赤和へ配水することはできないとあった。
湯本宗藏「高井地区の水を求めて」より
←上水道の久保水源
高山村文書 【高井村 水道事業経営の認可 昭和30年3月31日】より
久保水源の用地
1 所在地 :高山村大字高井字赤和前2416 【地盤高:650m】
2 用地取得:昭和32年8月1日付、分筆・所有権移転
3 前所有者:高山村大字高井2917-2 松本小市水利権移譲協定書の締結(細沢水源)
1 目的 :高井村上水道用水とするため、水利権を移譲する
2 取水場所:高井村大字高井字鷹放7273-1 【地盤高:719m】
3 水源種類:湧水
4 取水量 :毎秒0.7L 【 60.48m3/日 】
5 協定日 :昭和31年2月20日
6 締結者 :久保区長 勝山光國 ; 高井村長 宮前信男
昭和61年(1986年)、久保区で下堰に取水桝を設置した場所が赤和区有地内であったため、赤和区と久保区で借地契約を締結しました。
←林道に沿って流れる途中で、上堰から分水した水を合流する桝
平沢水路取水工の設置に関する借地契約書
赤和区所有の高山村大字高井字赤和前
弐四弐四番の土地内に対し標記平沢水路
取水施設としてコンクリート取水桝を設置
に関し次の通り借地契約を締結する記
一 設置する取水桝は一、二メートル桝とする
一 この土地の借用量料は弐万円とする。但し
この額は二十年分とし前納とする
一 この土地の契約期間は昭和六壱年拾壱月
四日より昭和八壱年拾壱月参日までとする
前項以外の事項が生じたときは双方協
議の上決定するものとする
以上昭和六壱年拾壱月四日
土地所有者
赤和区長 堀宏吉 印
〃 代理 篠原敏郎 印
土地借地者
久保区長 持田武信 印
〃 代理 勝山寛 印
平成18年の契約更新時に付帯事項が追加されました。
平沢水路取水工の設置に関する借地契約書(付帯事項)
赤和区所有の高山村高井字赤和前弐四弐四番の土地内に対し標記平
沢水路取水施設としてコンクリートの取水桝の設置に関する契約の締結
にあたって、次のとおり借地契約に付帯する。記
一 借地者は、無断で取水桝の改築・補修を行わないこと。
一 借地者は、台風時期等必要の都度取水桝の清掃を行い、溢水によ
り付近土地所有者に迷惑をかけないよう、常に取水桝の保守点検を
すること。
前項以外の事項が生じたときは、双方協議の上決定するものとする。
以上平成拾八年九月弐拾五日
土地所有者
赤和 区 長 牧 健彦 印
区長代理 北垣内 裕 印
土地借地者
久保 区 長 勝山 勝秋 印
区長代理 勝山 忠明 印
久保区は中河原の水田耕作者から用水使用量100円を毎年徴収していましたが、平成元年(1989年)頃に一括で1,000円を徴収し、それ以後の使用料の徴収を廃止しました。
令和4年(2022年)、高山村(内山信行村長)は上水道久保配水池から上堰に流出している余剰水に目を付けて水中地区へ配水することを企て、余剰水も含んだ平沢用水を利用している久保区民・水越十々木入耕作組合員・中河原二反田耕作組合員の同意を得ることのないまま、議会の予算承認を得て翌令和5年(2023年)に水中地区で配管敷設工事を実施しまた。
←通行止め看板(2023.10.1)
←水道管敷設工事(2023.10.1)
←水道管敷設工事(2023.10.1)
工事が完成したあかつきには、水中地区に配水される水量がそっくり平沢用水の水量減となって水越・上野・中河原地籍の水田耕作及び久保地区住民の生活に支障をきたすことになることは明らかです。
久保区民に説明がなく工事が進められていることに疑問が提起されたため役場による説明会が開かれ、水越十々木入耕作組合員・中河原二反田耕作組合員からは分水によって減少する農業用水の補填を求める要望が出されました。
←現地で工事について議論する久保・水中区民(Google ストリートビューより)
工事の継続が困難と判断した村は議会で工事中断の承認を得、令和5年12月時点で工事は止まっています。
←敷設完了した配管の末端(2023.10.1)
このまま工事が未完で終われば、既に敷設が完了した配管が人々の目に留まることはなく、遠い将来、たまたま何かの工事で掘り当てられたとき、『内山上水』として令和の遺跡の一つになるかもしれません。
最終更新日 2024年 5月31日
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