↑高杜神社拝殿
亀原和太四郎一門は、江戸時代中期から明治・大正期にかけて信州高井地方において優れた神社仏閣を建築した工匠一族で、その作品の素晴らしさは近年になってようやく注目されています。
亀原一門の祖は高井郡高井野村上赤和組の牧善太夫嘉康(〜明和6年、1769年)とされ、その子・嘉重(延享元年、1744年〜文政元年、1818年)が文化年代(1810年代)に初代・亀原和太四郎を名乗って以来、嘉重の弟・友吉嘉照、嘉重の子・武平太嘉貞(〜慶応2年、1866年)、
三代・和太四郎嘉博(寛政10年、1798年〜明治3年、1870年)、四代・和太四郎嘉照(弘化2年、1845年〜大正10年、1921年)と弟の加蔵嘉欽と代々その技が受け継がれてきました。
亀原家は大正8年(1919年)4月7日の法要準備の際に出火し、家が全焼したことから赤和の海福寺境内の建物に移っています。
四代・和太四郎嘉照の子・袈裟治嘉明(明治24年、1891年〜)も父親を手伝って建築に従事していましたが、大正元年に上京して日活に入社して舞台作りをし、父の死後、大正12年(1923年)に東京府へ転籍しています。
これ以降、亀原一族で建築に携わる子孫はいませんが、一門の作品は高井地方の社寺に生きています。
三代目・和太四郎嘉博は高井野村久保組の勝山重左衛門の末子・市蔵として生まれました。
母親は初代・和太四郎嘉重の娘で、二代・武平太嘉貞の実妹にあたります。
←勝山市蔵の生家
勝山重左衛門が亡くなったため、母親は重左衛門の位牌と子供二人を連れて上赤和の実家に戻り、武平太に子がなかったことから養子に迎えられ、この時に悦蔵と改名したようです。
数多くの寺社建築と彫刻を残した三代目・亀原和太四郎嘉博が、実は久保組の生まれであったことはあまり知られていません。
久保組の勝山家は悦蔵の兄弟の栄三郎が跡を継ぎ、もう一人の兄弟は松代藩へ婿入りして医者・大草玄達となっています。
武平太嘉貞は自ら二代目・亀原和太四郎を名乗っていないことから、かつては初代・和太四郎嘉重の孫に当たる悦蔵嘉博が二代目・和太四郎とされてきました。
ところが初代・嘉重が寛政年間(1789年〜1800年)に制作したとされる高杜神社(高山村久保)の随神像内の木片墨書に「天保十五年(1844年)奉修復 和太四郎三代後胤 京都大仏師七条左膳門家 亀原悦蔵藤原嘉貞」とあることが分かり、悦蔵は養父・武平太嘉貞を和太四郎二代目として敬い、自らを和太四郎三代と称したと考えられ、最近は悦蔵嘉博を三代目・和太四郎とみなすようになっています。
和太四郎嘉博が建てたお寺などの棟板に書かれている名前は、初期の天保年代(1830年代)に亀原悦蔵藤原嘉貞と名乗り、その他、悦蔵嘉重、悦蔵藤原嘉重、亀原和太四郎嘉博などとありますが、嘉永6年(1853年)に須坂藩御作事方後見になってからは亀原和太四郎嘉博のみになっています。
養父・武平太嘉貞は絵を小布施の高井鴻山(文化3年、1806年〜明治16年、1883年)に学び、彫刻を京都の大仏師に、漢学を小布施大島の根岸家で修めたといわれ、悦蔵は武平太嘉貞から指導を受けたとされていますが、藤原姓を加えていることから京都の仏師に師事したとも考えられ、詳細は不明です。
慶応2年(1866年)には高井野村の名主を勤め、明治3年(1870年)5月に亡くなりました。この年の3月には長男・和蔵嘉哲を亡くしており、暮れに「中野騒動」が勃発しています。
和太四郎嘉博は、浮世絵師・葛飾北斎と、北斎を小布施に招いた豪農商・高井鴻山とともに、祭屋台の建設と彫刻を行っています。
天保14年(1843年)に東町の祭屋台を葛飾北斎とともに再造しました。
祭屋台は二階建で高さ約4.8メートル、幅約2メートル、奥行き約3.4メートル、車輪付きです。
このとき北斎は『龍図』と『鳳凰図』の天井絵を桐の板に描いています。
弘化2年(1845年)には、上町(かんまち)の祭屋台を北斎の意匠と監督のもとに制作しています。
祭屋台は高さ約4.9メートル、幅約2.4メートル、奥行き約3.6メートルです。
和太四郎嘉博は、祭屋台の欄間の彫刻と皇孫勝(こうそんしょう、公孫勝とも)の像を制作しています。
←上町祭屋台(北斎館資料より)
欄間の桜、牡丹、朝顔、菊、各種の珍鳥の彫刻は、華麗な色彩にあいまって立体感を盛り上げています。
ここで北斎の描いた天井絵の怒涛図『男波(おなみ)』『女波(めなみ)』の縁絵は、北斎の下絵を基に鴻山が彩色しています。
飾り舞台に据えられた皇孫勝は「水滸伝」に登場する宗江の軍師で、長剣を手に呪文を唱えて海から龍を招き入れ、天界で舞わせている姿を彫刻したもので、北斎が納得するまで何度も作り替えたと伝えられ、和太四郎嘉博の人物像の傑作です。
←皇孫勝像(北斎館資料より)
天保15年(1844年)に、初代・亀原和太四郎嘉重が寛政年間に彫刻した高杜神社の随身像を修理しています。
↑随身像と狛犬
このとき像内に残したと思われる木片には
『天保十五年申辰六月奉修復 和太四郎三代後胤
京都大仏師七条左膳門家
亀原悦蔵藤原嘉貞』
と記されています。
随身像の脇の狛犬は嘉永元年(1848年)に彫工し、上赤和組の篠原要右衛門が寄進しています。
拝殿の中に安置されている本殿を嘉永元年(1848年)に再建しています。
棟札
『奉再建諏訪宮御本社一宇
棟梁当村亀原和田四郎嘉重花押』
←高杜神社本殿
本殿の大きさは間口が2間、約3.6m、奥行きが約2m、高さ約2mです。
総体が素木(しらき)の一間社(いっけんしゃ)流造(ながれつくり)で、まさに精神力の結晶といえます。
間口が広いだけに二重樽木が流れるように反り出し、それを向拝部の組手で押さえ、中央を唐破風にして彫物をみせています。
触れると手が切れるほどに鋭く深い彫りさばきで、渾身の力が拝する者に迫ってくる傑作です。
嘉永5年(1852年)に高杜神社参道の鳥居を建てています。
棟札
『奉再建諏訪宮鳥居一宇
棟梁当村亀原和田四郎嘉重花押』
幅は1丈3尺、高さが1丈8尺8寸で、このときの記録によると、費用は個人の寄進10両、村の負担10両、神社林の木材売却代約13両とあります。
←浄運寺本堂
井上山浄運寺(須坂市井上)本堂は寛政6年(1794年)に大工棟梁・坂口森右衛門、竹村庄左衛門によって再建されています(初代・亀原和田四郎嘉重との説もある)。
内部の欄間彫刻「十六羅漢」「二十四孝」は、三代目・和太四郎嘉博の代表作で、普請帳によると嘉永3年(1850年)に寄進されています。
平成21年度に須坂市の有形文化財に指定されています。
このほか初代・亀原和田四郎嘉重の作とされてきた雁田水穂神社(小布施町雁田)本殿の彫刻や、浄教寺(高山村水中)の欄間彫刻も、様式から嘉博の作とする見方があります。
←浄教寺欄間彫刻
嘉永4年(1851年)に普願寺(須坂市南原町)の鐘楼を再建しています。
入母屋瓦葺で、高さ2.2mの石積基壇の上に建ち、間口・奥行ともに3.7m、地上からの高さは11mです。
虹梁上の彫刻は南北が竜、東西は鳳凰が彫られ、堂々とした鐘楼です。
←普願寺鐘楼
棟札
『大工棟梁高井野亀原和太四郎藤原嘉重
脇棟梁勝山助七郎忠政』
「奉再建鐘堂干時嘉永四辛亥秋九月」
普願寺の本堂(延享4年、大工棟梁は越後国三島郡本与板村の丸山武兵衛)と鐘楼は須坂市の有形文化財に指定されています。
嘉永5年(1852年)に水内坐一元神社(長野市小島区)で建設された門灯籠の彫刻を制作しています。
門幅は5.25m、門総高6.8m、門内高4.5mの屋根付き稚児柱付きです。
長野市の有形民族文化財に指定されています。
嘉永6年(1853年)に須坂市沼目の福正寺薬師堂を建てています。
間口13.6m、奥行9.1mの入母屋造瓦葺です。
格天井には高井鴻山によって「着色天井絵 大鷲図」が描かれています。岩に大鷲が止まる構図は、葛飾北斎画といわれる「厳上の大鷲図」とよく似ており、須坂市の有形文化財に指定されています。
←沼目薬師堂
安政元年(1854年)に諏訪神社秋宮本社(高山村蕨平)を建てています。
間口5.5m、奥行7.3m、茅葺きで、現在は鉄板葺きに改修されています。
←諏訪神社秋宮本社
『絵様などに胡粉、緑青、弁柄などの色彩が残っている。
向拝の木鼻は象鼻であるが、江戸後期のような定型化に至る以前の独創的な形のものである。
本社は、本殿の上屋が切妻、拝殿に相当する部分が入母屋、妻入りの形をとるこの撞木造りの建物。』
として高山村の有形文化財に指定されています。
安政2年(1855年)に浄念寺本堂(須坂市春木町)を山岡平左衛門と合作で建てています。
←浄念寺本堂
間口17.7m、奥行18.3m、高さが20.0mで、入母屋造瓦葺の壮大な建物です。
安政6年(1859年)に山田温泉(高山村)の牛窪神社本社を建てています。
←牛窪神社
棟札には
『大工棟梁亀原和太四郎藤原嘉博
脇棟梁亀原和蔵嘉哲』
と、長男・嘉哲の名前も記されています。
安政6年(1859年)に墨坂神社芝宮本社(須坂市春木町)の本殿と水屋を制作しています。
本殿は間口1.85m、奥行2.95m、高さ2.0mで、覆堂の裡に安置されています。
←墨坂神社拝殿
「水屋」は参拝に先立ち身を清める場所で「手水舎(ちょうずや)」ともいわれます。
間口3.6m、奥行2.5m、四脚造りで高さ5.0m、瓦葺です。
←水屋
四方の柱頭に取り付けられた翼を持つ竜の彫刻は、4人の彫刻師が各々一個を彫刻したもので、それぞれ形が違っています。
水屋の棟木を支えている雄力神と雌力神の彫刻も個性的です。
安政6年(1859年)に奥田神社(須坂市常盤町)の本殿を制作しています。
←奥田神社拝殿
奥田神社は旧須坂藩主堀氏を祀った神社で、本殿は覆堂の裡に安置されています。
万延元年(1860年)に赤和観音(高山村赤和)の観世音菩薩像を制作しています。
文久3年(1863年)に東照寺(須坂市米子)の本堂を建てています。
間口17.0m、奥行18.7m、高さ20.0m、屋根は銅板葺に改修されており、山を背に南面して堂々と美しい姿です。
←東照寺本堂
欄間の彫刻は須坂市の有形文化財に指定されています。
最終更新日 2015年10月27日
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