久保の家
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埋葬地今昔

共同墓地
↑お盆中の共同墓地(2021年8月14日)
 久保地区の集落を通過して林道月生線を200mほど登っていくと右側に桜の木と杉林に囲まれた共同墓地があり、昭和40年代まで埋葬が行われていました。
 この共同墓地は明治の中頃に現在地に移設されたと伝えられています。


地区内の墓地

共同墓地

↑久保地区の共同墓地
 共同墓地は大窪地籍の北西向き斜面の区有地にあり、幅約15m、長さ約90mで上端が三角になった細長い約1,300uほどの土地が、17行5列の約80区画に区割りされています。
 区画の配置は地区の隣組とほぼ同じで低い所に1組のお宅の区画があり、上に向かって2組・・・6組となっていますが、組とは離れた場所のお宅の区画も何軒かあり、こうした配置にした経緯は伝わっていません。

墓地  当地区では1960年代まで土葬が行われていたため、古いお墓は区画の上端に棹石と台が据えてあるだけで、その前は広く空いています。

墓地  埋葬した後は土が盛り上がっていますが時間が経つと次第に低くなり、上に置いた自然石が位置を示しているだけです。

墓地  1970年(昭和45年)に公営の火葬施設「松川苑」ができてから火葬が普及して墓穴のスペースが不要になったため、区画を広く使い、遺骨を納めることができる納骨室のある立派なお墓が多くなってきました。

墓地  さらに近年は、お盆に迎え火を焚くスペースだけを残し、他は区画一杯に石とコンクリートでできたお墓があちこちに建ってきました。
 お彼岸やお盆の草刈が簡単で、暮らしに余裕が出てきた証です。

墓じまい  一方、地区から余所に引っ越して墓じまいされた区画が約2割あります。
 隣の区画の人が草を刈らなければ、お盆になっても草が伸びたままです。

無縁墓  また墓石はあるものの、永年、管理された様子のない無縁墓状態の区画が約1割あります。
 お盆に隣の区画の人が気を使って草を刈っておいても、だれかがお詣りに来た様子はありません。


マケ(マキ)の墓地

宮前マケの墓地←宮前マケの墓地
 共同墓地から200mほど離れた窪入地籍の山中に宮前姓の4軒がまとまって墓地を設けています。

まき:
 古代の氏族、近世の本家・分家の関係など、同一の血族団体。まけ。まく。【広辞苑】


単独の墓地

地区を取り巻く山中に単独の墓地があります。

勝山宇三郎家の墓  勝山宇三郎家は旧家で、宇三郎氏は村長を3期務め、子の信司氏は須坂高等女学校長などを歴任しています。
←勝山宇三郎家の墓地

勝山氏の墓地  高杜神社から勝山の中腹を通る昔からの山道を辿って東に進むと、台石に「勝山氏」と刻まれた墓石のある墓所に至ります。
←「勝山氏」の墓地

殉難者の墓  中野騒動の殉難者の亡骸は家族の墓に入れてもらえず、人目につかない山中にひっそりと建てられています。
←中野騒動殉難者の墓


明治時代の埋葬地

絵図面

 久保区に「埋葬地銘々境界取調絵図面」と記された絵図面が伝えられ、三角形の久保組共有地に壱番から七十七番までと馬捨場の区割りが描かれ、明治十八年酉十月と記されています。
埋葬地銘々境界取調絵図面
 ↑「埋葬地銘々境界取調絵図面」

この絵図面から以下のようなことが読み取れます。
・埋葬地の形状が現在とは異なるが、区画数はほぼ同じ
・久保地区は北西向きの斜面に位置しており共有地も同様とすると、三角形の底辺の六十八番から七十七番の区画がもっとも標高が低く、三角形の頂点の壱番の区画がもっとも標高が高い
・頂点と辺に沿った区画以外はほぼ同じ面積に区画されている
・各区画に記されている氏名の住居の位置と区割りの位置に関連は見られない
・明治12年(1879年)に久保組が高杜神社に奉納する大幟を作製した際の名簿と対照すると約7割が共通の氏名で、当時の資産の多寡による区割りの偏りは見られない
 ↓埋葬地番と氏名、幟制作名簿記載(〇)
地番と氏名

当地区では明治18年(1885年)に共同墓地を移転したと伝えられていることから、絵図面は現在地に移転する直前の状態を表していると推定されますが、区割りの経緯などは伝わっていません。
 また現在は共同墓地にお墓のないお宅の氏名も記されており、これ以降に単独もしくは集団で移転したと考えられます。


旧埋葬地の場所の特定

絵図面の形状と久保組の共有地とを照合して埋葬地の所在地を推定します。
共有地  三角形をした久保地区の共有地は黄線で囲んだ場所と橙線で囲んだ場所の二カ所あります。
  黄線三角形の面積:約240坪
  橙線三角形の面積:約580坪
 埋葬地を移転する際に一区画の面積を同等にしたと考えると、橙線三角形の場所が該当しそうです。

移転の理由

明治17年(1884)、墓地法制の集大成ともいえる「墓地及埋葬取締規則」(太政官布達第二五号)が施行され、その細目標準(内務省達乙第四〇号)で墓地の新設基準が定められました。
 ・墓地は鉄道・河川・人家から60間(≒110m)以上離れていること(第 2 条)
 ・墓地の周囲に樹木を植えること(第 4 条)
 ・清潔を旨とし掃除・修繕を怠らないこと(第 5 条)

墓地及埋葬取締規則施行細目標準(抄)
 明治十七年十一月十八日内務省乙第四十号達 警視庁 府県
 第一条 墓地ハ従前許可セラレタルモノニ限ル 但己ムヲ得サル事情アリテ之ヲ取広メ又ハ新設スル場合ニ於テハ地方庁ニ願出ヘシ
 第二条 墓地ヲ新設スルハ国道県道鉄道大川ニ沿ハス人家ヲ隔ルコト凡ソ六十間以上ニシテ土地高燥飲用水ニ障ナキ地ヲ選ムヘシ

上記橙線三角形の埋葬地が久保川に近かったことから、細目標準に準じて久保川から離れた現在地に移転したものと推定されます。
 このときに旧埋葬地では区画がランダムに割り当てられていたものを、住居の位置に沿った現在地の配置に変えたと推定されますが、根拠となる資料は見つかっていません。
 いずれにしても「死ねば平等」な区画の配置です。


参考にさせていただいた資料

最終更新日 2021年 8月16日

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