久保の家
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ごえんさん

権現堂

江戸時代、現在の久保公会堂の敷地には権現堂が建っており、熊野坐神社(くまのにますじんじゃ、熊野本宮大社の別称)が組の鎮守社として祀られていました。
 文政2年(1819年)に敷地を拡大したという記録があり、九尺四方の本殿と鳥居を構えていたそうです。
 毎年6月25日にお祭が行われていました。

熊野権現(くまのごんげん):
 熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)の主祭神(主として祀られている神)のことでスサノオノミコト、イザナギノモコト、イザナミノミコトがそれぞれ祀られています。
 権現とは仏が形を代えて日本の神として現れた姿を言います。神社仏閣ミニ辞典

明治になって熊野坐神社は村社という社格を与えられていましたが、明治41年(1908年)、県の神社合併促進通達に従って久保組は熊野坐神社を高杜神社に合祀する嘆願書を提出し、12月9日に認可されています。
 これによって熊野坐神社はなくなりましたが、引き続いて無格社の養蚕神社として祀られました。

しゃかく【社格】:
 神社の格式。1871年(明治4)の太政官布告は、大・中・小の官幣社、別格官幣社、大・中・小の国幣社、府・県・郷・村社および無格社に分けた。1946年廃止。
 昔は天つ社(あまつやしろ)・国つ社(くにつやしろ)、大・中・小社、官社・式内社・式外社などの社格があった。 広辞苑

御遷宮

大正13年(1924年)、公会堂の増築に伴って養蚕神社が高杜神社の北の現在地に遷宮さました。
 4月27日の初例祭には、御供(粉物繭玉3斗5升)を撒きながら、献備物、山車(宝船)、底無屋台が繰り出されました。
 この写真中に久保の家の爺ちゃん(当時4歳)がしっかり写っています。
御遷宮

養蚕神社は区民から親しまれて蚕神(かいこがみ)さんと呼ばれましたが、「権現さん」、「ごえんどう」、あるいは「ごえんさん」と呼ばれることも稀ではありませんでした。

久保神社社殿  昭和34年(1959年)、伊勢湾台風によって社殿が崩壊したため、翌年、工事費5万3千円をかけて再建されました。

久保神社

2年参り  昭和の末期になると農業の主体が養蚕から果樹に変わって養蚕農家が1軒もなくなったことから、平成元年(1989年)、区民の総意で久保神社と改名し、住民の繁栄と地域の振興をお守りいただくことになりました。
 しかし、今でも年配者は「ごえんどう」とか「ごえんさん」と呼んでいます。


太陽と月

例祭の吹流し  4月26日は春の例祭で、竿の先端に太陽と月を取り付けた紅白の吹流しを社殿の前に立てます。
 これは熊野坐神社を信仰していた名残だといわれています。

高井野から毛無峠を越えて上州嬬恋村干俣に至る「毛無道」は、北信と上州を最短距離で結ぶ経路として中世には盛んに利用されていました。 毛無道の道筋の門貝には鎌倉時代ごろから熊野神社が祀られ、その信仰は、熊野御師(山伏)とされる人たちによって各地へと広められたことから、久保組の鎮守社もその影響を受けた可能性があります。

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参考にさせていただいた資料


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