高井野の地理高井野の街道

万座街道〜上信スカイライン

万座街道は江戸時代から牧村の人々が万座温泉に湯治客や食糧を運んだ山道でしたが、明治30年代後半以降は廃れていました。
 第二次大戦後、自動車が通れるように改修して「上信スカイライン」と名付けられ、長野電鉄が須坂―万座温泉間で路線バスの運行を開始すると、一躍、全国的に注目を浴びる道路になると共に、万座温泉が鄙びた湯治場から人気の観光地に発展する先魁になりました。

上信スカイラインから望む北アルプス
↑上信スカイラインから望む北アルプス


二つの万座街道

北国街道と主な間道  須坂・小布施方面と上州万座を結ぶ万座街道は、山田温泉から五色・七味を経由して松川を上り詰める山田道(草津道)から右に折れて万座峠に出る万座道と、牧から湯峯を経由して尾根筋を通り万座峠で山田からの万座道と合流する湯峯道がありました。

←北国街道と上州を結ぶ主な間道(『信州高井 牧の民俗』)

山田側の万座道←山田側の万座道
 明治30年代まではそれぞれ活用されていましたが、同30年代後半に山田温泉から五色温泉・七味温泉までの道路の拡幅がなされて便利になった結果、それ以後の50年間は山田側からの万座道が主役となっていました。


湯峯道

明治16年(1883年)に編集された『長野県町村誌』には牧から万座へ行く湯峯道の記載はありませんが、町村誌に添付の【牧村絵図】や明治20年の絵地図などには、牧から湯峯を経由して尾根筋を中日影山に至る道が描かれています。

牧村の絵図
↑明治20年(1887年)の牧村絵図(『信州高山村誌』)

湯峯公園  湯峯の尾根道に出るまでに二つの登り口がありました。

←湯峰の案内看板

一つは、現在の長野県道・群馬県道466号牧干俣線のように柞沢川(たらさわがわ)沿いを上って乙見平を屈折して上りつめるコースです。 この道は現在より低い沢沿いを通過したことから、柞沢川を何回か渡渉しました。 柞沢川は浅いとはいえ5〜10メートルの段丘崖を刻んでいるので、道は川の両岸を渡り繋がれていました。 一ノ瀬・二ノ瀬など五ノ瀬まで地名が語り継がれていますが、瀬は谷川の浅瀬の意味で、渡渉地点に当たっています。

牧村絵図 ←【牧村絵図】(明治11年ごろ、長野県立歴史館蔵)
(クリックすると拡大表示します)

もう一つは、日影山の待留から右に折れて山道に入る峰山コースです。 いわば日影道ですが、黒岩博氏蔵の古地図をはじめ国土地理院の五万分の一の地形図にも記されていて、道のり、時間的距離とも柞沢川沿いのコースより近いことになります。 この道は日影道ではあるが緩やかであり、その上、柞沢川の出水の危険、夏のかんかん照りを考慮に入れると、夏道として一般的でした。

万座峠  湯峯から尾根道になって御飯岳の北背で標高1900メートルを越えます。ここが牧の人々が呼ぶ万座峠です。

←老ノ倉山の西斜面を通過する万座線の最高地点(1,938m)

あとは黒湯山の南斜面を等高線に沿って進み、万座温泉に下ります。

万座峠(山田道)の地蔵  途中、山田道から上ってきて合流するいわゆる万座峠がありますが、ここは山田道の万座峠であって、牧の人々の万座峠ではありません。

←万座峠(山田道)の地蔵

万座牛方稼ぎ

万座牛方稼ぎ  滝沢田助さんの言によると、田助さんのお爺さんが二頭継ぎの牛の背で湯客の食糧を万座温泉まで上げたということで、牧の人々が万座温泉を支えてきたことが分かります。

←万座牛方稼ぎ(『信州高山村誌』)

牛池  万座にほど近いところにある「牛池」と呼ばれる湿沼はその名残を語るもので、附近の湿地には木を切り出して横に敷き詰めてぬかるみを渡った、などの話を聞かされたそうです。

←牛池


万座線開通

道路改修

昭和7年(1932年)6月に長野市、須坂町、高井村、山田村、中野町、平隠村の各市町村長連盟で「府県道 硯川中野線改修並に須坂山田線延長工事施工申請」という陳情が、県知事宛になされました。 須坂山田線の延長工事というのは、須坂町より山田温泉を経て、芳ヶ平で硯川中野線と合流し、草津温泉まででありました。
 ところがこの陳情に障害がありました。それは山田温泉は通過するだけで、客は万座温泉に吸収されて、営業上死活問題であると反対があったようです。そのために一時運動は停止した形となりました。

県道須坂万座線工事  そこで高井村側では、村長と牧区長が昭和8年2月に、県会議員を通じて何回か県知事に陳情し、昭和9年(1934年)度に、農村応急道路改修工事として着工の運びとなり、戦時中の昭和18年(1943年)11月に開通しました。

←県道須坂万座線の工事状況を視察する一行(昭和15年ごろ『写真が語る高井の歴史』)

開通後、維持管理がなされなかったために荒れ放題となっていましたが、昭和26年(1951年)に県は機械力によって県境まで改修を行いました。


県道昇格

万座線の県道昇格にまつわる裏話を黒部の湯本宗造さんが解説しています。

万座線の改修工事前の道は全くの山道で、村道の認定もされていませんでした。 工事に着手してから、昭和10年(1935年)9月10日付で、村長は村道須坂万座線として認定していただきたいと、県知事宛に申請しました。 県知事は早速同月19日付でこれを認可しました。

ここで一寸不思議なことがあります。 村道認定の指令より前の、昭和10年3月25日付で、県道認定申請が、県知事より内務大臣宛になされていました。 この申請は、群馬県知事と協議が必要、と認可にならなかったようです。 高井村長は、昭和11年(1936年)9月に、村道として改修したいと内務大臣宛申請し、許可となりました。 この工事費は県費(一部地元負担)で賄われました。 その間に、長野・群馬両県知事が万座温泉において、昭和10年7月に会見しています。

村道須坂万座線が県道に昇格したのは昭和12年(1937年)6月で、「県道須坂草津線」と命名されました。
 現在の県道名は「群馬県道・長野県道112号大前須坂線」と「長野県道・群馬県道466号牧干俣線」の2線となって、万座温泉に通じています。
(湯本宗蔵「万座線」より)


観光道路県道須坂草津線

昭和25年(1950年)8月発行の高井村公民館報では県道須坂草津線に寄せる期待をトップで記載しています。

海抜1,954メートルの高原を走る全長2万メートルに及ぶ県道須坂草津線は、本村の牧部落から活火山白根の西中腹の高原の観光保養遊蕩地上州草津・万座の温泉とを繋ぐ日本一の高処を往く観光道路で、昨年この地が上信越高原国立公園として誕生したので、路線が縫って行く高原の風光の明媚と雄大な展望とで、一躍ハイキングコースとしてクローズアップされた。

乙見高原はこの路線の起点牧部落から、清冽な柞沢川に沿って上がること数丁、今ここを歩むと夏草が露を含み峯々松と白樺の風致林の調和はさながらグリーンの油画の中を行く心地がする。 このあたり春は若草の原に真紅に燃えるつつじの陰蕨狩の人々で賑わい、秋は穂芒が風になびき万山紅葉に映え、冬はスキー場として知られている。

万座峠  万座峠は、乙見高原を過ぎ原始林を縫い、起点から1万4千メートル老ノ倉がこの峠の頂上、長野群馬の県境へ数丁のところクマザサの中に海抜一千九百五十四メートルと記した木の香も新しい標柱が建っている。涼風というより寒さを覚える。
 西に広がる善光寺平、銀の帯を敷いた千曲の流れはゆるく、その果て信濃五山はいうに及ばず野尻湖北アルプス連峰遥か彼方には焼山の噴煙が見られ、これより坦々として万座草津に至る。

上信をつなぐ本路線は昭和10年に観光と山村資源搬出の産業道路として本格的な改修工事が起り、昭和19年ようやく自動車による走破を見たもので、観光事業の進むに従い本路線に観光バスの開通されるのも又近いだろう。
(「上信越高原国立公園を走る」『高井村公民館報』より)


上信スカイライン

長野電鉄が須坂―万座間に「上信スカイライン」開設

昭和27年(1952年)9月1日から、長野電鉄は「上信スカイライン」と名づけて、須坂―万座温泉間で高原観光バスの運行を始めました。
 このコースは上信越高原国立公園の海抜2,000メートル地点を横切るバス路線で、わが国スカイラインコースの先駆けとなりました。

万座線から望む笠岳
↑万座線から望む山田牧場、笠岳、岩菅山、横手山

運行開始前の8月26日に、須坂自動車営業所から2台のバスに70名の関係者を乗せ、試運転が行われました。 高井村(高山村)字牧の子安(こやす)橋から分かれて善光寺平、千曲川、日本アルプス連峰が眺められる乙見(おとみ)高原からの展望に、乗客は思わず歓声を上げました。

8月27日から31日まで5日間の非公式運行時の収入は20万円を計上しています。

雪の回廊 ←残雪の万座線を運行するバス(『須坂・中野・飯山の昭和史』)

有料道路料金徴収所
↑有料道路料金徴収所(『須坂・中野・飯山の昭和史』)
 長野電鉄は初めバスだけ通し、一般車の通行は禁止して改修を続け、昭和35年(1960年)から20年間、御飯岳北側の県境から万座峠までを有料道路とし、一般車の通行を可能にしました。

全コース32キロ余り、3時間10分という長距離コースで、10月の紅葉の季節まで1日4往復の運行でした。 この運行により須坂方面から万座温泉行きが便利になり、個人でも団体でもたやすく行けて人気を博しました。


万座道路

万座線
↑万座道路(須坂駅〜万座温泉)

長野県道・群馬県道466号牧干俣線

群馬県道・長野県道112号大前須坂線  長野県上高井郡高山村牧より群馬県吾妻郡嬬恋村干俣に至る一般県道で、通称「上信スカイライン」と呼ばれるほか「万座道路」の別名もありますが、地元における知名度は高くありません。

←高山村牧の子安橋附近
・長野県道・群馬県道466号牧干俣線の起点で、看板には並行する112号が記されているだけ
長野県道351号山田温泉線の終点

一本松 ←一本松のヘアピンカーブ

群馬県境 ←県境の群馬県側の看板
 県道に関する表示はありません

群馬県境 ←県境の長野県側の看板
 「牧干俣線
  県道 高山村 牧」
 の看板もあります

群馬県道 ←群馬県道466号の看板
 草津までの距離が記載されています

群馬県道 ←群馬県道466号の看板
 須坂までの距離が記載されています

万座温泉 ←万座線の林間から見下ろす万座温泉

万座温泉入口 ←万座温泉入口の看板

万座温泉の分岐 ←万座温泉の分岐点の看板
 長野方面の記載はありますが県道の表示はありません


群馬県道・長野県道112号大前須坂線

112号線荒井原  群馬県吾妻郡嬬恋村と長野県須坂市を結ぶ一般県道です。

112号線と466号線の分岐  「万座 白根」方面に行く466号は左に向かい、112号は右に分岐します。
 看板には「小串 毛無峠 行止まり」と書かれています。

通行規制  大型車は通行禁止になっています。

通行規制  通行注意の看板もあります。

通行止め  毛無峠の群馬県側は不通になっています。


↑毛無峠周辺地図


近年の万座道

県道牧干俣線

昭和40年(1965年)に長野電鉄のバス路線は万座温泉から白根山、山田峠を経て渋峠まで延長されました。
 しかし、西武グループによる万座温泉の開発が進んで群馬県側のアクセスが主になるとともに、マイカーの普及に伴ってバスの利用客が減少したことから、昭和57年(1982年)に長野電鉄のバス路線は廃線となりました。
 近年は竹の子採りのシーズンに車が列をなす他、群馬県が2018年8月11日に開通した「ぐんま県境稜線トレイル」バラギ・鹿沢エリアの北の登山口に通じるアクセス道路として利用されています。

林道山田入線

明治30年代から約半世紀に渡って万座温泉に湯治客や物資を運搬するために利用されてきた山田側の万座道は、「上信スカイライン」の開通によってその役割を終えました。

林道山田入線(起点)  七味温泉から群馬県境に至る原生林から木材を搬出するための林道山田入線が開設されました。

土砂流出防備保安林  七味温泉から群馬県境までの一帯は土砂流出防備保安林に指定され、林道山田入線は自然災害によって度々通行不能になっています。
←土砂流出防備保安林の看板

 林道山田入線の起点には災害復旧工事が完成したことを記念する「万座街道の碑」が昭和58年(1983年)に建てられています。
「万座街道の碑」 沿革
↑「万座街道の碑」と背面の碑文

 万座街道の碑
  長野県知事 吉村午良書

   沿 革
 山田温泉より松川沿いに五色七味を経て原始林の中の急坂な山道を登り、眺望絶景の万
座峠を越えて、海抜六千尺の秘湯万座温泉に至る三里半の山道を古くから万座街道といった。
 昭和二十八年、県道万座線が開通するまで万座への表街道の重要な役割を果してきたのが
この街道であり、湯治客や生活資材の運搬路として牛馬や駕篭の往来が頻繁であった。
 奥日影及び山田入地籍約一千七百ヘクタールの原生林に生い繁った樅・栂・樺・ブナなどの
搬出や観光客のために、林道の開設が奥日影森林組合によって計画され昭和十九年に着工、
延長八千三百五十メートル幅員四メートル総工費三千三百九十七万円をもって昭和三十四年
に竣工した。同三十六年高山村に移管されたが、七味より峠頂上に至る間の地質は極めて悪
く融雪豪雨等の災害により通行不能の状態が多かった。
 特に昭和五十六年・五十七年、二か年にわたる台風豪雨災害は三十三か所に及び全線通行
不能の惨状となった。これが復旧に当っては国・県の積極的な協力指導により総工費一億五
千二百余万円をもって見事に復旧、改良が完成し林道としての機能はもとより県境を越えて
の地域開発に大きな役割を果すこととなった。
 ここに災害復旧工事完成にあたり、関係各位に感謝し記念碑を建立する。
   昭和五十八年十月吉日
             高山村長 久保田常吉 撰文

林道山田入線(終点)  豪雨や豪雪などの自然災害が相次ぐ近年は崩落箇所の復旧が進まず全面通行止めが続いています。
 それでも時折、バイクで強行突破する様子がYouTubeに投稿されています。


参考にさせていただいた資料

最終更新 2021年 5月 8日

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