高井野の歴史>大久保田
高井野村紫組の久保田家は、自宅から隣町の小布施まで他人の土地を踏まずに行ける、といわれた大地主でした。
第2次大戦後の農地改革でほとんどの土地を失いましたが、今でもなお『大久保田』と呼ばれています。
←昭和初期の久保田家(『会報高山史談』より)
久保田家の先祖・嘉兵衛は寛永(1624年〜1645年)のころに山田村から高井野村紫新田に移住入植した新田百姓でした。
子孫の当主は代々重右衛門を名乗って次第に財を築き、文化文政年間(1804年〜1830年)には高辻500石の大高持となり、金融業・製油・酒造業を兼ねた寄生地主として近郷にその名をとどろかせました。
安政4年(1857年)に他の小前百姓と共に村政改革を行い、名主と年寄役をそれまでの堀之内組の4軒による世襲から各組1年交代で村総選挙による選定にし、9代目重右衛門は年寄役、大組頭、名主を歴任しました。
明治3年(1870年)12月に発生した中野騒動で9代目重右衛門は暴動の首謀者として逮捕され、翌明治4年(1871年)に獄死しました。
久保田家は中野騒動以降も政治力・経済力を維持し続け、子孫は紫組組頭、高井村戸長を務め、重右衛門の長子・慶祐は長野県会議員に就任しています。
←久保田慶祐(『写真が語る高井の歴史』より)
5代目重右衛門は俳諧に親しんで俳号を
墓碑には「家門中興」との文字が記されており、この代に特に家産を増やしたようです。
天明3年(1783年)に豪邸を建て、その年に浅間山の大噴火に続く大飢饉に際しては「一般土民へ施米」をしています。
「引上げて見れば風吹く燈籠かな」高井野兎園
「奥深き風の薫りや秋葉山」兎園
「畠中にのさばり立る桜かな」
「空樋を鼠のはしるおち葉かな」
久保田 兎園(くぼた とえん、享保6年(1721年) - 寛政12年5月1日(1800年6月11日))は、高井野藩紫組(長野県高山村)の大地主、俳人。 名は重右衛門(5代目)、本名は光良。兎園は俳号。高井野の俳句結社「高井野連」の中心的人物。兎園の娘婿の久保田春耕は、小林一茶の門人。 Wikipedia 兎園
兎園の養子・
「曲り所の草の青さよ春の水」春畊
久保田 春耕(くぼた しゅんこう、安永3年(1774年) - 嘉永3年(1850年))は、江戸時代の豪農、俳人。名は重右衛門(6代目)、本名は光豊。春耕は俳号。
信濃国高井郡高井野村紫組(現長野県高山村)の久保田兎園の娘婿で、妻の成布、子の夫妻・五郁、柳志はともに小林一茶の門人。 Wikipedia 春耕
兎園が18世紀末の天明から寛政期頃に建てた茅葺きの隠居所を春畊が一茶に提供したことから、一茶は通算136日も逗留して高井野村や近在の門人たちを精力的に指導しました。
←久保田家離れ屋
(高山村指定有形文化財)(『写真が語る高井の歴史』より)
一茶の代表作とされる「父の終焉日記」のほか「花春帖(浅黄空)」「筆記(俳諧寺抄録)」の原本をはじめ、数多くの遺墨が久保田家に伝えられてきました。
←「父の終焉日記」本文
(高山村指定有形文化財)(『村の文化財をたずねて』)
←「花春帖(浅黄空)」本文
(高山村指定有形文化財)(『村の文化財をたずねて』)
←「筆記(俳諧寺抄録)」
(高山村指定有形文化財)(『村の文化財をたずねて』)
文政10年閏6月1日(1827年7月24日)、一茶の暮らす柏原宿が大火に遭って一茶は母屋を失い、焼け残った土蔵で生活をするようになり、同年閏6月15日、春畊に手紙を書いています。これは数多い一茶の書簡の中で最も有名なものの一つとされています。
←一茶が春畊に宛てた書簡
御安清奉賀。されば私は丸やけに而是迄参り候。此人田中へ参り候。私参候迄御とめ可被下候。右申入度、かしく。
壬(閏)六月十五日節
土蔵住居して
やけ土のほかりほかりや蚤さはぐ
紫畊大人
一茶
久保田家の裏の墓地に、文政2、3年(1819、20年)頃に春畊が建てたとされる菫塚芭蕉句碑があります。
『山路来て なにやらゆかし すみれぐさ』
奥庭には、幕末三大書家の一人・市川米庵(安永8年(1779年)〜安政5年(1858年))揮毫による兎園の句碑が建っています。
『我のみか かかる桜の あさぼらけ』
嘉永元年(1848年)7月27日に高杜神社で春畊はじめ7名の俳人が俳諧の歌仙を巻き、締めくくりに秋の七草を各人が分担して1句ずつ詠んで奉納、俳額として掲げました。
江戸時代には旧暦7月27日に高杜神社の例祭が行われていたことから、例祭に高杜神社の廣前(神前)で句会が開かれたと推定されます。
←高杜神社に奉納された俳額
嘉永元申年七月二十七日
於杜神社廣前奥行
俳諧連歌
前一ふき薫るや厨の
活し連れて書ニ写ん手始
客のきても恚る残雰けし
葉にちかくくるる風あり
戦ぬもかりしくかけ藤
(篠原しづか「高杜神社嘉永元年奉納俳額について」より)
久保田家の隣に作られた一茶ゆかりの里 一茶館では、久保田春畊が一茶に提供した”離れ屋”が移築され、遺物が展示されています。
寛政12年(1800年)に6代目重右衛門が屋敷内に天神社を祀っています。
←久保田家天満宮(『写真が語る高井の歴史』より)
本殿の棟札には初代・亀原和田四郎嘉重(延享元年(1744年)〜文政元寅年(1818年))の名が記されています。
『願主 久保田重右衛門光豊
棟梁 亀原和太四良嘉重立之』
←天満宮本殿(『写真が語る高井の歴史』より)
天明3年(1783年)に行われた高杜神社の拝殿再建にあたり、資材と建設資金35両を5代目重右衛門が寄進しました。
←高杜神社拝殿
重右衛門の功労を称え、現在でも秋の例大祭には拝殿前の上席に井桁灯籠を立てています。
←井桁灯籠
明治3年12月に勃発した中野騒動の際、高井野村の年寄役を勤めていた9代目重右衛門は、高井野村名主・内山織右衛門と共に暴動の鎮撫に全力を捧げましたが、官憲はこの二人を暴動の首魁に擬し、手厳しく拷問にかけて罪状を糺しました。
斬罪は免れたものの牢死した重右衛門に対して、高井野村民は、一揆の首謀者の罪を着せられ、水責め、火責め、石責め等あらゆる過酷な拷問に遭うも、最後まで冤罪には服さないでよく村名家名を汚さなかったその徳を称え、義人久保田重右衛門さんと称して敬慕しています。
↑久保田家の墓
文化年間(1804年〜1817年)、久保田一族の久保田源之丞は小河原村字高畑地籍(須坂市高畑町)に深さ7丈(21.1m)余の井戸を掘って耕耘回復策をはかり、小河原村東組の基を開きました。
さらに日滝村から小河原村の北に広がる松川扇状地に用水堰を引いて数百町歩の美田を開発しようと、隣接する上野国の万座川からの引水に着目し、およその測量を終え、いよいよ幕府の許可を得ようとした矢先に死去してしまい、実行されませんでした。
明治11年に堀之内の太田才右衛門が中心となって上州万座山中から分水界を越えて高井野・日滝原に水を引く事業が遂行され、久保田慶祐も新堰開鑿事業に738円を出資しました。
このときに開鑿された『太田堰』の分水枡が久保田家の近くに残っています。
←『太田堰』の分水枡
最終更新 2020年 3月14日