久保の家
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高杜神社あれこれ

高杜神社拝殿
 ↑高杜神社拝殿
 ”勝山”の麓に鎮座している高杜神社について伝えられているちょっと気になる話題をまとめました。


はじまりのはじまり

古来、高井野に暮らした人々は”勝山”を祖霊の座す山と考え、頂上にある”大石”(磐座(いわくら))の上に神が天空から降りてくると信じて暮らし、やがて麓に社を建てて拝むようになったのであろうといわれています。

勝山と高杜神社
↑灰野峠から望む勝山と高杜神社の杉並木

高杜神社裏山の磐座

高杜神社は勝山尾根の緩斜面に位置する。磐座に近い適地を選んで、はじめは、磐座の遥拝所として建てられたのだろう。
 葉山と考えられる裏山(勝山)の磐座は、高杜神社の祖形と考えられるのである。
 『延喜式内高杜神社史』

自然崇拝

古社の発祥はもともとそこに自然崇拝の対象物があって、祭祀がおこなわれ、故地に社殿が設けられるようになったことに由来する。
高社山と赤岩地区  その点、赤岩の高杜神社は高井富士とよばれる高社山を崇拝の対象にしていたらしい。 高社は「高いヤシロ」で、その麓に現在の高杜神社が所在している。
←高社山と中野市赤岩地区
高杜神社里宮 ←高杜神社里宮(里社)
 中野市大字赤岩字宮之裏1552
 祭神:少那彦名之命、(配祀)大國主之命、健御名方之命

高杜神社奥宮  それに対して、高井の高杜神社には高杜(たかと)山(紫禰萩(しねはぎ)山)、高位山(御飯岳)、勝山の大石など崇拝の対象にあげられるが、たしかな証拠にとぼしい。
 『信州高山村誌』歴史編
←高杜山・勝山・高杜神社と杉並木


御牧の鎮守

奈良時代(710年〜784年/794年)〜平安時代(794年〜1185年/1192年)に、朝廷の馬を育てる官営牧場「御牧」の一つの「高位牧(たかいのまき)(高井野牧)」が高井郡にあり、高杜神社は高位牧の鎮守であったと考えられています。

【高位牧】亦云高井野牧

高位牧 本村の卯方にあり、其地形たる、南北二所に分るるを以て、南牧、北牧の称あり
 地形、東北は瀧澤川の急流を帯び、東南隅は谷響岩、突出し、西南は樋澤川の流れに添ふ、依て周囲天然の柵を設くるものの如し。
 北牧の地に捕馬場の跡あり。其形たる、周囲に高堤を築き、堤外に空壕を穿ち、宛然城郭の如し
『長野懸町村誌』高井村
←高位牧ノ古趾絵図(『高井郡古跡名勝絵図』)

高井牧址

大字高井にあり。延喜式・東鑑亦共に其名顕る。牧址、南にあるを南牧と云ひ、北にあるを北牧と云ふ。 面積217町1反余にして、四囲は谷と川とにて天然の柵を設くるが如し。
 此牧の地に捕馬場の跡あり、周囲に高堤を築き、堤外に空壕を穿つ、宛然城郭の様を為せり。
 牧跡に隣りて、黒部と称ふる地名あり。是は当時高井黒と称する、黒毛の名馬を算出したる遺跡なるべく、 山田村字駒場は牡馬を放牧せる遺跡ならんか。
 〇海上胤平
 いにしへの高ゐの牧はまくさ刈る 駒場わらへにとひて知らまし
 〇讀人しらす
 これやこの高位の牧にありときく 黒部はこまの名残なるらむ
 〇野口信幸
 しつくらをたれかたくらむかねてより 名にし高ゐの牧のあら駒
 〇米澤千稲
 信濃なる高位のまきの放ち駒 雲井の庭にいつひかるらむ
 『長野縣上高井郡誌』

高井牧址

延喜式・東鑑共に其名顕る、牧址の南にあるを南牧と云ひ、北にあるを北牧と云ふ、 面積217町1反餘にして、四囲は谷と川とにて天然の柵を設くるが如し、 此牧の地に捕馬場の跡あり、周囲に高堤を築き、堤外に空壕を穿つ、宛然城郭の様をなせり、 牧址に隣て黒部と称す地名あり、是は当時高井黒と称する名馬を算出したる遺跡なるべく、 山田村字駒場は牡馬を放牧せる遺跡なるべし
 『上高井歴史』

高位牧・高杜神社と古墳群

式内社高杜神社は、勝山の尾根先、久保・荒井原両集落の先端に位置し、後ろに高井地区で最も古いと伝承される赤和集落を控え、すぐ前方には高井地区で最も早くから稲作が行われた字小布毛・中河原を抱える位置に建っている。 赤和と並んで古い歴史を持つ水中と堀之内をその前方に望む場所である。
 勝山の裏の赤和寄りに「鷹放し」という字がある。 そこで鷹を放して鷹の止まった所に、高杜神社を祀ったという伝承もある。
男塚 県塚・大塚・女塚は荒井原の急坂の中腹で、高杜神社から100メートル余りの距離にある。
←男塚(『高井郡古跡名勝絵図』)
この神社が高井の中心として古い時代から地域の住民に崇められてきたのもうなずける。 つまり、高杜神社は高位牧の中心として祀られた神社とも考えられるのである。
 原滋『自然と人のふれあう村』

高位牧は高井郡の中心か

高位牧の原形は遅くとも7、8世紀にはできていたのではないだろうか。 ただし、文献に初見されるのは、10世紀前半成立の「延喜式」である。 そこには、左右馬寮(めりょう)管下の信濃国十六御牧(みまき)の一つとして挙げられている。 御牧というのは朝廷所有の牧ということである。
 当時の牧は狭い意味の牧場、放牧場ではなく、その内部には、牧場を維持するために田畑・原野・集落などを包含するものであった。 古代の高井牧の範囲は、大まかには旧高井村に相当するのではなかろうか。 あるいは、大塚古墳のある須坂市本郷あたりまで、包含していた可能性も考えられる。
 高位牧(高井野牧)が、高井郡の郡名を冠していることに注目すれば(湯本軍一)、あるいは高位牧は高井郡の政治的中心地であったとも考えられる。
 牧の管理運営の中心は、県塚・新保塚に近い荒井原・堀之内のあたりか、あるいは、本郷大塚古墳の近くにあったとも考えられる。 それは、荒井原遺跡・堀之内の八幡添遺跡があるからである。 両遺跡はともに縄文中期〜平安時代の複合遺跡で、敷石住居の跡がある。 さらに高杜神社の周辺(大宮北遺跡)からも、弥生土器や平安時代の土師器(はじき)が出土している。
 これらの遺跡に生活した人たちの信仰の中心は、勝山であり、さらにそのふもとに祭られるようになった高杜神社と考えられる。
 『延喜式内高杜神社史』

高位牧神社

高位牧神社 延喜式「高位牧」は、はたしてどの辺に存在したのであろうか。
 中野市間長瀬村には「古社」の「高位牧神社」があり、むかしはそのあたりから、宇木にいたる広大な放牧地があったという。
←高位牧神社
 中野市大字間長瀬字宮1
 祭神:大山祇命

 私は母が間長瀬に生家を持っていたから子供のころから聞かされたことに、
『昔むかしの大むかしは、今の夜間瀬川は夜交川といって、箱山の傍を中野松川の方へ流れ、岩船あたりや七瀬の近くになって蛇行しながら篠井川、千曲川と合流していたが、ある夜、突然大雨のため、角間川が物すごい勢いで大土石流となり、今の湯田中の崖下を流して箱山にぶつかり、水先が北へ向いて、宇木の十二崖を西流したのが、アッという間の出来事で、牧場の馬がたくさん流された。 そこでこの村は「馬流村」といったのだが、間長瀬に村名を変え、天皇陛下の牧場であったから流された馬の霊を祀って「高位牧神社」としたので、とても古くからのお社だ』
と聞かされ、子ども心には本当の話として聞いていたのである。
 高村庄五郎「黒部村伝記」


はじまり

高杜神社が創建されたのは平安時代(794年〜1185年、1192年)初期とされています。

大同元年
高杜神社
 高井村大字高井字大宮南にあり。 本社の宮殿は大同元年の旧作たりしに、用材腐朽せる為に、去る天明2年改築せるは眞に惜むべき事なり。
 『長野縣上高井郡誌』
大同元年
大同元年(806年)に高杜神社が建てられたとの伝承がある。
 『延喜式内高杜神社史』
大同元年
【阿弥陀山護国院清水寺】(長野市若穂保科)
 創立大同元年眞雅僧正開山となす。
 『長野懸町村誌』保科村
清水寺観音堂 【観音堂】(長野市若穂保科)
 延暦20年坂上田村麻此観音へ祈誓し、奥州の賊高丸を征伐す。依て大同元年寺堂を再建し、香花、燈明料若干及鍬形の兜を寄付す。
 『長野懸町村誌』保科村
←清水寺観音堂
大同年中
 抑々高杜神は健御名方神の御子に坐して、我高位縣総領の神として高井に坐せり、始め天孫降臨に当りて健御名方神は日本を皇孫に奉り賜ひて、親ら洲羽に来り止り給ひ、 国中の蝦夷を征服し、科野総領の神となり給ひ、国を八つに分ち縣毎に御神子を配置し賜へり、 八縣とは内縣(諏訪)外縣(上下伊那)大縣(南北佐久)小縣(小縣)南縣(東筑摩)北縣(更級・埴科)高位縣(上下高井)水内縣(上下水内)これなり。 而して高位縣神として高杜神統治の任に当り給へり
 本郡開闢の地は高井村とす、健御名方富命の御子高杜神の開拓統治に属し、その子孫或は郡領となりて居を同村荒井原に占めたり、その處を今縣屋敷と云ふ。 されば日本地理志料には「按古郡家高井村にあり郡名因て起る」とし、信濃地名考は「郡の中央に高井野村あり、郡造に及びて一郡の名となれるなるべし」と記せり。 而して高井縣主の墳墓を縣塚と呼びて荒井原字大星にあり、大塚又男塚と称し直系約8間、天明中道路改修の為め、発掘したるに石郭現れ金環・玉類・古鈴等を出し勝山神職宅に保管す。 高杜神はこれより南大宮の地に鎮座し延喜式内たり
 郷社高杜神社 大同年中創立と伝う
 『上高井歴史』
大同2年(807年)
・円仁や空海、坂上田村麻呂に関連した伝承で、この年号がよく使われる。 空海が日本に帰国した年がこの年と言われることも多いが、史実としてはっきりとしない。
・東北各地の神社の創建に関する年号はこの年とされる。 茨城県の雨引千勝神社の創建はこの年である。早池峰神社、赤城神社なども同様である。 また福島県いわき市の湯の嶽観音も、この年の3月21日に開基されたとある。 清水寺、長谷寺などの寺院までこの年に建てられたとされ、富士山本宮浅間大社(静岡県)も、大鳥居の前に堂々と大同元年縁起が記載されている。 香川県の善通寺をはじめとする四国遍路八十八ヵ所の1割以上がこの年である。 各地の小さい神社仏閣にいたるまで枚挙にいとまがないほど、大同2年及び大同年間はそれらの創建にかかわる年号である。
 「ウィキペディア」

うつりかわり

お祀りする神様が産土神(うぶすなのかみ)から諏訪社の祭神に変わり、お宮の名称も時代と共に変遷してきました。

祭神

多加毛利之神、健御名方命
 高杜神社の祭神は多加毛利之神(たかもりのかみ)健御名方命(たけみなかたのみこと)である。 前者は地主神であり、後者は諏訪上社の祭神である。 多加毛利は高い森の意味、森とは「神社などのある神域で、神霊のよりつく樹木が高く群がり立ったところ」である(国語大辞典)。 神がそこへ降りてくると古代人は信じていたのだ。 このように多加毛利之神は高く群がり立つ樹木そのものを神と崇め祀った祭神で、この神社の由来の古さを物語っている。
 久保には、その裏山の勝山を苗字とする家が30数件あり、久保区戸数の半数を占めている。
 勝山氏の本家筋の家が、高杜神社をおよびしたという伝承がある。中世、諏訪神社の勧請の際、勝山氏が大きな働きをしたのではないかと考えられる。
天満宮  勝山氏の鎮守神は天神さんで、伝承によると高杜神社と関係があるらしい。
 原滋『自然と人のふれあう村』
←勝山家の天満宮
多加毛利命、健御名方富命
 高杜神社の祭神は「多加毛利命(たかもりのみこと)」と「健御名方富命(たけみなかたとみのみこと)」である。
 明治8年(1875年)に高杜神社の神主は、県へつぎのように報告している。
「古老の伝によると、高杜神社祭神の高杜大神は、この地の濫觴(らんしょう)(はじめる)の太祖(祖先)である。 そのため、その神徳を仰ぎ奉りて、郡名を高位と称したところ、郷里はおいおい繁盛して一郡になったという。 また、諏訪社旧記にはつぎのようにある。多加毛利命は健御名方富命の子供で、高位県を守り給う神である。 だから、高位県大明神と称している」
 多加毛利命は、高杜神とも書き、その土地に生まれた人々を守護する産土神とされている。 多加毛利命は諏訪大社(諏訪市)の祭神である健御名方富命の子供で、高井野村をはじめ高井郡の開発をした神であり、祖先でもある。 このように諏訪大社の健御名方富命と多加毛利命は、親子関係で結び付いて、この二神が高杜神社の祭神になっているというのである。
 これはあくまでも伝承であるが、江戸時代のはじめから、多加毛利命と諏訪大明神(健御名方富命=諏訪本社の上社)が高杜神社の祭神となっているということである。
 『延喜式内高杜神社史』
高杜神社
当県御支配 高井野村鎮座
 謹按スルニ高杜神社起源之儀者多加毛利ノ神御鎮座ヨリ権興仕候哉ニ奉存候其徴者諏方旧記ニ建御名方命之御子高杜ノ神者高位縣之神云々ト御座候 亦出雲風土記ニ意宇郡式内狭井高杜神社楯縫郡高杜神社飯石郡多加毛利神社ニ座相見ヘ申候此皆御同神ニテ則神名ヨリ興リ候御社号ト存候 且御鎮座之儀ハ高井野村ニ御座候得共右者我奉仕ノ社ニ御座候得者確定之儀者 御官裁ヲ相待可申奉存候
 勝山健雄『延喜式社名儀攷』
高井野の高杜神社
 高杜神社の祭神は健御名方富命と多加毛利神(たかもりがみ)高杜神(たかもりがみ))の二座とされている。 健御名方富命は軍神であり、農業・狩猟神でもあった。信濃国の一宮(信濃国第一の社格)である諏訪上社(諏訪市)の祭神である。
 高杜神社に諏訪信仰が入ってきたのは、鎌倉時代からであろう。 北条氏は執権として鎌倉幕府の実権を握るとともに、一族を信濃守護とした。こうして信濃一宮の諏訪社も北条氏の支配するところとなった。 そして、信濃各地の武士たちは北条氏にあやかって諏訪社を各自の所領に勧請(かんじょう)したのである。 諏訪信仰が高杜神社に入ってくると、地主神(じしゅしん)の高杜神は健御名方富命の子と位置づけられた。
 『延喜式内高杜神社史』
高杜神社の祭神
 高杜神社の祭神は建御名方命と高毛利命である。 建御名方命は古事記にあって、戦いに負けて出雲から逃げてきたという諏訪明神の主神である。
 高毛利命は古事記には出ていないが、建御名方命の第八子だと高杜神社の縁起にある。 それはつくりごとだという人もあるが、神様だからいいではないかといえば、確かにその通りである。
 しかし高杜神社の本当の歴史を調べるには、つくりごとばかりでは困るのである。
 高杜神社という名がはじめからあるとすれば、祭神は高毛利命だけでいいはずであるが、後になって(鎌倉時代以後ともいわれている)諏訪明神をどこでも祀るようになったとき、高毛利命をその子供とした方が、神様の格付が良くなるように思われて、そのように作ってしまったという説もある。
 もしそうであれば、はじめの土俗神のままでおいた方が、今になれば歴史上の価値も高いし、有難さもあって惜しい気がする。
 高村庄五郎「高杜神社考」
祭神
 現在、多くの神社では、日本神話に登場する神を祭神としているか、日本神話の神と同神であるとしている。
 元々神道は海・山・川などを畏敬の対象の神体とする自然崇拝から始まったものであり、初期の神社では、そこに祀られる神には特に名前はないか、不詳であった。 記紀や万葉集などでも、祭神の名が記されているのは伊勢神宮、住吉神社などごくわずかであり、ほとんどの神社の祭神は、鎮座地名や神社名に「神」をつけただけの名前で呼ばれていた。
 延喜式神名帳でもほとんどの神社は社名しか記されていないことから、延喜式が編まれた10世紀初頭ごろまではほとんどの神社の祭神には特に名前がついていなかったことがわかる。
 10世紀ごろから、それまでの氏神・地主神・岐の神としての性格だけでなく、火の神・水の神・木の神などの具体的な神徳・機能が附加されるようになった。
 鎌倉時代末期になると、仏教による本地垂迹説に対する神本仏迹説が主に武家に支持されて隆盛となり、祭神も、その神徳に合わせて地名・社名から日本神話に登場する神、あるいは「神」「命・尊」「彦・比古」「姫・媛・比売」などをつけた人格的な神に移行するようになった。 また、稲荷・八幡などの有力な神を分霊(勧請)してそれを主神とすることも広く行われた。
 この流れは江戸末期の国学者たちによる復古神道の提唱により神典が頻繁に引用されて行われ、さらに明治になり神仏分離として結実すると、村社末社無格社に至るまで浸透した。
 「ウィキペディア」

神社名

高井野大明神
 高杜神社に諏訪神社(健御名方命)が勧請されたのは、鎌倉時代前後のころと考えられる。 須田氏が高井・須坂地区を支配するようになったころ、武神としての諏訪神社信仰が当地方にも広まり、式内社に対する国家の保護も薄くなった高杜神社に、諏訪神社が相殿として祀られた。 以後は高井野大明神(高井野に祀られた諏訪大明神)と呼ばれて当地方の武士たちに崇められた。
 原滋『自然と人のふれあう村』
「諏訪大明神」、「高井野大明神」
須田氏文書  天正17年(1589年)に、須田満親父子が高杜神社に大鷹を献上する文書が残っている。 この文書のあて名は「高井野大明神」となっている。 これは高井野郷に鎮座する諏訪大明神のことである。
←須田満親が高杜神社に大鷹を献上した文書
 中世から江戸時代中期までは、高杜神社は「諏訪大明神」あるいは「高井野大明神」と呼ばれていたようである。
 『延喜式内高杜神社史』
「諏訪大明神」、「高杜神社」
 高杜神社は、はじめは諏訪大明神と呼ばれていたようである。 寛延3年(1750年)に高杜神社の社号が認可されてからは、しだいに高杜神社と呼ぶようになる。
 しかし、文書にでてくる神社名を見ると、しばらくの間は諏訪大明神といったり、高杜神社といったり、諏訪大明神・高杜神社と並列して呼んだりしている。
 それが寛政年間(1789年〜1800年)ころから、高杜神社にほぼ固定してくる。
 『延喜式内高杜神社史』

あっちかこっちか

平安時代の延長5年(927年)にまとめられた「延喜式」の巻9・10の『延喜式神名帳』には、信濃国高井郡の式社として墨坂神社、越智神社、小内神社、笠原神社、小坂神社、高杜神社の6座が記されています。

式内社と高杜神社

式内社(しきないしゃ)とは、平安時代初期に作られた「延喜式」(法典)の神名帳に載せられた神社のことである。 式内社は官社であるため、朝廷あるいは国(信濃国など)の役所から幣帛(へいはく)が供えられた。
 しかし、中世に武士が勢力を持つようになり、朝廷の権威が衰えると、延喜式の神社制度は崩れ、神社の名称だけを残すだけとなった。 祭神も地主神から著名な有力神に変わっていく。
 くだって江戸時代の中期以後、国学が盛んになるにつれて、日本固有の神道が見直され、旧式内社だと称する神社があちこちにでてくる。 なかには神名帳に載せられた一社にたいし二、三の神社が式内社の後身だとして、社号を争う場合もあった。 この近辺にもその例は多い。これを論社という。
 高井野村の高杜神社も、赤岩村(中野市)の高杜神社と式内の社号をめぐって論争した。 その結果、当社が、吉田神道の本所(家元)である京都の吉田家から、式内の指定を受けることになる。
 『延喜式内高杜神社史』

寛延3年(1750年)
吉田家、全国の神社改めをおこない、有志の輩に神社号の出願を通達する。
高井野村、吉田家へ社号を申請し、3月、吉田家から式内社高杜神社社号を認可される。
寛政3年(1791年)
吉田家、当国一統の神社改めを行う。
文政7年(1824年)
吉田家から高井野村高杜神社に式内社の社号認定書が交付される。
赤岩村高杜神社には「赤岩高杜神社」の社号が認可される。
文政8年(1825年)
吉田家から赤岩村高杜神社に「高社高杜神社」の社号が認定される。
安政3年(1856年)
吉田家から高井野村の式内社高杜神社の社号裁許状を交付される。
明治6年(1873年)
高井野村の高杜神社は郷社に指定された。赤岩村の高社高杜神社は村社に列した。
明治31年(1898年)
高杜神社中社 科野村(赤岩村・越村・深沢村が合併して発足)の高杜神社が県社に昇格した。
←高杜神社中社
 中野市大字赤岩字神宮寺下563
えんぎ‐しき【延喜式】
弘仁式・貞観式の後を承けて編修された律令の施行細則。平安初期の禁中の年中儀式や制度などの事を漢文で記す。50巻。 905年(延喜5)藤原時平・紀長谷雄・三善清行らが勅を受け、時平の没後、忠平が業を継ぎ、927年(延長5)撰進。 967年(康保4)施行。
じんみょう‐ちょう【神名帳】
神祇の名称を記した帳簿。特に延喜式巻9・巻10の神名式をいい、毎年祈年祭(としごいのまつり)の幣帛にあずかる宮中・京中・五畿七道の神社3132座を国郡別に登載する。しんめいちょう。
しき‐ない【式内】
延喜式の神名帳に記載されている神社。式内社。式社。
けんしゃ【県社】
旧社格の一。県から奉幣した神社。国幣社の下、郷社(ごうしゃ)の上に位する。
ごうしゃ【郷社】
旧社格の一。府県社の下、村社の上に位する。府県または市から幣帛を奉った。
そん‐しゃ【村社】
旧社格の一。郷社の下、無格社の上に位する。祈年祭・新嘗祭・例祭などに村から奉幣した。
 《広辞苑》

【高杜神社】郷社
 里俗傳に、社格延喜式内、本郷6座の内ノ1と云。祭神武御名方富命、多加毛利神、2座、古傳曰、高毛利大神は武御名方刀美命の御子の神にして、高位懸を守護し給う大神なり、依て高位懸祖明神と称奉る云々。 亦曰、高杜大神は、本郷濫觴の太祖たる故に、神威を尊び、高位と称せしより郷名とす云々。
 『長野縣町村誌』高井村

【高社高杜神社】村社
高社高杜神社  本村赤岩組東の方、高社山支峯の頂上岩窟中に鎮座す。祭神少彦名命、相殿大國主命、両神を往古より高杜薬師といひ尊称す。 里宮は本村西の方字宮地に鎮座。祭神上に同じ、両神並に武御名方命。氏子163戸。 往古は高杜神社と称し、名神大社たりしを、中古佛法盛なる時諸國有名の神社へ神宮寺を置かれ当社へも神宮寺を附せらる。 佛者私説を唱ひ遂に薬師佛と混淆し、神名甚だ曖昧す。 正中年間神宮寺廃亡し、本社も亦た隋て衰廃す。 故に祭祀等里宮にて専ら行ふ事となれり。
←高社高杜神社本社、里宮(『高井郡古跡名勝絵図』科野村部分)
(文政年中、旧神祇官吉田家にて延喜式内の神社取調の際、旧号の儘御指定願出候處、同郡外神社へ撰定相成候儀は氏子一同遺憾罷在候處、明治8年旧社寺取調の公布あり、依て里老傳説等詳細取調御鑑定願置候。)
 『長野縣町村誌』科野村


高杜神社

式内高社(杜)神社と称する神社には高社高杜神社(高社山支峯頂上、中野市赤岩)等もあるが、 高山村高井の高杜神社(祭神も健御名方命・高毛利神)もこの神社であると称している。
 「式内神社考」(吉沢好謙著)には
「高井の北部、飯山城の東南に突出の山あり。頂に神社います。土人高やしろと云。この神社なるべし」
と説明している。
 文政7年、高社高杜神社と高井村高杜神社とが、吉田家へ高杜神社の社号を競願し、吉田家は高社がわの願を却下して、高井村がわに高杜神社の社号を允許した。
 しかし、これは江戸時代の勢力関係によったものであり、どちらが由緒正しいかということを示すものではない。
 『長野県上高井誌 歴史編』

吉沢好謙(よしざわたかあき、宝永7年2月8日(1710年3月7日)- 安永6年1月1日(1777年2月8日))は江戸時代の地方史家、俳人。 通称は清右衛門。号は鶏山。『千曲之真砂』の瀬下敬忠、『信濃奇勝録』の井出道貞とともに、佐久の三大郷土史家と並び称される。 市井の生活に目を向け、1736年(元文元年)『四鄰譚藪』、1744年(延享元年)『信陽雑志』、1767年(明和4年)『信濃地名考』などで信濃国の地理・歴史・民俗を編纂し、地元の方言を採集した『続譚籔』や、日常語についての弟子との問答『鄙問答』などで地域の言葉や文字の考証に当たった。
 「ウィキペディア」吉沢好謙

延喜式内社と土俗神

高毛利命の子孫は代々県主(あがたぬし)になったと高杜神社縁起にあるが、大化元年(645年)に大化の改新があり、 それまでの県主を郡司に改めたとなっていて、額田王(推古)が王位に就く(592年)以前のことは考古学の部で歴史でないことになっているので、歴史上の県主は50年位である。
 またこの付近を「県」といったかどうか、県主がいたかどうか、ということについては、伝承も記録もはっきりしたものがないのである。
 承平5年(935年)の和名抄に高井郡(上下高井全部)には、穂科、稲向(井上)、小内(安源寺)、日野、神戸(瑞穂)の5郷があるだけで、高井野はのっていない。
 高杜神社は延喜式内社ということになっている。 式内社の高井六社とは、墨坂神・越智神・小内神・笠原神・小坂神・高杜神であって、高井とは今の上下高井郡全体のことを指している。 (延喜年間に高井村という名はなかった。)
 中野市赤岩高やしろの高杜神社と本家争いをして、延喜式神名帳にのっている高杜神は高井野の方にして頂きたいと願いを出して、 神官の位などをくれる神道取締の吉田家から正式にお墨付きをもらったのは、江戸時代中期の寛延元年(1750年)で、延喜式(927年)ができてから823年も経ってのことであった。 ということは、それまでどちらの村も延喜式なぞどうでも良かったのである。
 別にたしかな証拠があったわけでもなかったが、大村の力(高井野村は北信一番の大村であった)と上納金をたくさん吉田家に上げたことによって、高やしろに勝ってお墨付きをもらったのだとという歴史家が多い。
 そのことは明治政府になってから神様の格付けをするにあたり、種々調査の結果、今度は逆になり、高やしろの方が県社になり、高井野の方はその下の位の郷社に決められてしまったからである。
 神様の歴史は、神官の書いた由緒書や口伝は辻褄の合わない所があったりして、当てにならないものである。
 神官としては、高杜神社を諏訪明神の出店にした方が都合がよかったかもしれないが、その出店にする前に、土地の人が作った神様(土俗神)を片付けてしまわないで、残しておいてもらった方が、村の歴史を調べるにはよほど役立つし、有難かった。
 高村庄五郎「高杜神社考」


参考にさせていただいた資料

最終更新日 2022年11月25日

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